巧みな作品であるからこその怖さ

木下惠介『陸軍』(1944)を観た。

観るのは2回目。数年前に観たときの記憶や、その後本などで読んだ解説文等から、「ああ、そうだ。こんな話だったな」と思いながらの鑑賞だった。

この作品は、戦中に作られた戦意高揚映画である。しかし、最後に出征する息子をいてもたってもいられずに小走りで見送るその母親のシーンが軍部に気に入られなかったというエピソードは有名だ。まるで、裏に隠れた真のテーマとして「反戦」を掲げているようにもとれる展開だからだ。

今回、そのシーンを自分で計ってみた。母親演じる田中絹代が、行進曲を耳にしてつい息子を探しにかけ出し、そして息子を見つけ行進に並走し、最後は涙ながらに手を合わせるアップで終わるこのシークエンスはゆうに8分を超えていた。行進曲と歌声、そして見送る人々の歓声の他に、音声として存在するのは、田中絹代が息子を見つけたときにつぶやく「あっ、慎太郎」の一言のみ。慎太郎に追いついて顔を合わせるも、二人は声を掛け合うこともない。ただ目を合わせて、頷いたり、軽く微笑んだりするだけだ。しかし多くの観客は、田中絹代の複雑な表情から、「かわいい息子を死に追いやりたくない」という本能的な感情を汲み取ったことだろう。実際に私がそうだった。

さて、木下惠介は戦後には民主主義をうたう名作を残している。その代表格が『二十四の瞳』だ。私も鑑賞して、これでもかというくらいに涙した。これははっきりと反戦の思想を込めた作品だ。反戦のみならず、反貧困など、弱い者たちの目線で世の不条理を描いたものである。他にも多くのそういった作品があるため、私は木下惠介が、反戦の思想を持った監督だったろうと考える。

この『陸軍』は、戦時中であるという事情により、有無を言わさず好戦的な内容で作られている。世の中全体がそうした流れであり、そうでなければとても映画など作れず、それどころか処罰された時代だったからだ。ただし、軍部が製作時にこの作品のラストを好まなかったことからもわかるように、あたかもこれは好戦的とみせかけながら、反戦厭戦の思想を巧みに織り込んだ映画だと言われる。それは多くの映画評論家が指摘するところであり、前述のように私自身もそう感じた。

しかし今回、そのような解釈をじっくり考えながらこの映画を再見していると、今までには抱いたことのなかった感想も浮かんできた。それは、平和主義の監督が巧みに撮った一見好戦的な映画が持つ、ある意味での危険性である。言い換えれば、腕があるからこそ、見る側も深い見識を備えなければ、むしろリアリティをもってこの映画に「感動」し、もしかしたら監督の本意ではないのに、「戦争賛成」という気分になってしまうのでは、という懸念である。

あらかじめ言っておくが、私はこの解釈によって、例えば木下惠介を戦犯者として貶めようというつもりは全くない。ただ、この私が、数十本の戦中、戦後の映画を観た上で感じた新たな感想を、冷静にまとめようとしているだけである。

この作品は、改めて見直すと、冒頭からずっと、いかに「命を投げ出してでも国に、そして天皇に忠義を果たすことが尊いか」ということが強調されている。戦意高揚映画なのだから当然といえばそうなのだが、敗戦後には戦後民主主義を強く押し出した木下惠介の作品だと思いながら見ると、その主張の強さにどうしてもたじろいでしまう。ある一家が三代に渡り、天子様に忠義を尽くすことを人生の目的として生きているさまが描かれている。少し不器用で真面目な家族たちゆえ、そのひたむきさはより強まり、なんの疑いもなく、天皇のために生きることに精を出す。

ただし、だからといってその頃に実際に生きていた人びとが、みな本心で国家のために命を投げ出したいと思っていたのかというと、必ずしもそうではないだろうと私は思う。誰だって命は惜しいし、出来れば平和に楽しく暮らせるほうがいいだろう。ましてや家族思いの真面目な人なら、かわいい我が子をむざむざと死なせるという行為に疑問を抱いたことがないというのはフィクションだろう。ただ、ここで木下惠介の敏腕さが、ある意味で仇となってしまう。つまり、例としてはこうだ。筆者は完全に反戦思想を持っている。平和を好むし、どんな理由をつけても戦争とは非人間的な殺し合いでしかないと思う。そして木下惠介という監督は、戦後の数々の映画を見てもわかるとおり、平和を愛する作家だと思う。その前提を持ってこの映画を筆者がいま観たときに、あまりに上手に家族愛、隣人愛、そしてユーモアやペーソスといった要素まで含んで作られた作品であるがゆえ、ふと「自分のエゴを捨て、国のために喜んで生きようとする人びと」や、「戦友という存在の、損得を超えた結びつき」の「美しさ」のようなものを感じそうになった気がしたからだ。いや、実際に確かに感じた。ついつい短気から喧嘩をする男同士が、「戦争」という命題を目の前にしたときに、互いに尊敬し合ったり、助け合ったりする。そのほっこりとした瞬間に、人間同士の美しい関係をみた気になるのだ。そして、戦争という事象に好意的になり、時には酔いしれる人びとの甘美な気持ちを分かった気がしたのだ。

この映画がもし、作風は同じでも、もっとずさんな脚本で、うまくない演出であったなら。あるいは、技術はあっても、完全に戦争を賛美し、子供たちが戦死しても大喜びするような登場人物しかいないようなものだったなら。いずれも、ただ嘘くさく映ったのだと思う。しかし、きちんと普遍的な人間愛や、子を思う母の気持ちなどを置き去りにせず描いているからこそ、どんどんこの作品にリアリティが増し、結果として戦意高揚調で描いている場面にまで自然と同調しそうになっている自分に気づくのである。さすがに、生まれたときから民主主義の教育を受けた著者なので、この気持ちのトリックには同時に気づけている。親子愛や同士愛といったものは別に戦争があるから存在するのではない。どんな状況においてもありうるものだ。ただ、戦争という舞台設定があまりに強烈であるために、そういった美談めいたものが、うっかりするとあたかも「戦争があるからこそ起きうる素晴らしい現象」であるかのごとく錯覚するのだ。

戦争とは、どう理由付けても、最終目標は人を殺すことであり、敵味方関係なく弱い存在から順に不幸に陥る事件である。だから、いくら空疎に聞こえようが、「平和」が大切で、「戦争」を避けるべきものだと心にすることは何よりも大切なことだ。そういった、基本的過ぎてうっかり忘れそうになる事実を、『陸軍』という巧みに撮られた作品を見たときに、なにか忘れそうになった自分を恐ろしくも感じた。戦時中、真っ直ぐな人ほど、軍部の言うことに心から賛成し、信じて行動した者も少なくなかっただろう。もし著者がその時代に生き、その頃の教育を受けていたら、なにも迷わずに戦争に協力していたのかもしれない。そんな可能性を、いま『陸軍』を観て感じたのだった。

木下惠介にとどまらず、黒澤明今井正も、戦意高揚映画とみせかけて、実は厭戦反戦の気持ちも込めたと思われるような作品を撮っている。これまでは、そういった、時局に逆らえないながらもなんとか自身の平和主義を投影しようとした作家たちを讃える気持ちが筆者には大きかった。事実、今でもその気持ちは変わらない。ただ、今回の映画鑑賞を通して、うまくバランスをとって現実味と共に作られている映画だからこそ、より多くの人びとに「戦争の良さ」を思わせてしまうような結果ももたらしかねない可能性を、ふと心に抱いたのだった。

芸術というものは、そもそもが矛盾をはらむものである。残酷なものが美しく映ったり、創造性を追い求めた結果、殺人という行為に結びつく産物を作り出してしまうこともある。しかし人は生きていく上で芸術を求めるし、作風がどうあろうと、未来から過去を知る貴重な手がかりにもなる存在だ。今回の映画鑑賞も、ぼんやり観れば「なるほどね。では次の作品を観るとしよう」で終わっていたのだろう。だが、それが作られた時代、作家の性質、現代から観ている自分という存在について様々に思いを馳せながら観たことで、芸術が人に与えうる影響の大きさを思い知ることになった。他の皆はどのようにこの映画を観たのだろう。今後調べてみたい。