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『この世界の片隅に』感想

映画『この世界の片隅に』を観た。

原作が好きで、映画関係者による絶賛もさんざん聞いてきた上での鑑賞。当然期待値は上がり、自分の評価も厳し目になってしまうだろうと予想していた。しかし、実際は主人公のすずさんが登場した瞬間に、すでにウルッときてしまった。あまりにその世界観がそのまま現れていて感激したのだろう。

ほんわか、ふんわかしたすずさんの性格が滲み出てくるような絵。空気感。それなのに、ワンシーンごとに詰まっている情報量は密である。各人物の個性や、時代背景、景色、そういった画面の隅々にわたるもののディテールが、明確な説明なしに組み込まれている。説明過多な映画が多いなか、その不親切といえるほどの自然さが心地よかった。

説明が過ぎないと言うことは、謎がそのままであるということ。観ている側は「どういうことだろう?」と考えながら、また、とりあえずの解釈をしながら話を追っていく。気になれば観賞後に自分で調べるだろうし、気にならない箇所はひとまずわからないままでもいい。「このシーンのこの人物はこういう気持ちなんです」「このカットではこれを主張したいんです」という押し付けがましさがない。「戦争」という、人類史上もっとも悲しく恐ろしい時代を背景にしながらも、イデオロギー色は入れない、もしくはそれを見出したければ自分なりに考えればいいというスタイルに感じられた。人間の行動や歴史は、白黒割り切れないことのほうが多い。グレーさを残して、判断は観客に委ねるという作り方が私には好みだった。

兄弟姉妹のやり取りの愛おしさ、戦争中にあってもなんとか明るく日常を生きようとする人びと。そんな描写が続くので、こちらが励まされる気持ちになる。本当は食べ物もなく、不条理な現実に苦しんでいるはずなのに、この作品ではそれを全面に出さない。戦時中には、悲しんで人前で堂々と泣くという行為は、反戦として禁じられていたとか。だから、本音はどうあれ、それを表せなかっという理由もあるだろう。戦争を知らない世代が見たら、「けっこう楽しくやってたんだな」と一見思ってしまうかもしれないほどだ。けれどそのぶん、実際にあったひもじさや暴力、原爆などの凄惨さに思いを馳せれば、そのギャップに打ちのめされる。

私が一番心に残ったのは、玉音放送を聞いたあとのすずさんの思いだ。突然「戦争が終わりました」と言われても納得がいかない。どんなに苦しくても、前向きにひたすらにお国のために尽くしてきた。その気持ちをなんとか支えていた理由づけが、一瞬でなくなる。こんなことが許されるのか。計り知れない虚無感、怒り、悲しみに襲われるなら、いっそなにも知らないままに死んでしまえばよかった。そういう意味の台詞だったと思う。

こんなにほんわかと優しい女の子ですら、戦争の意義を疑っていなかった。そうしなければ生きていけない時代だったろうし、またそういった教育と雰囲気で育った時代なのだから、多くの人は彼女のような考え方だったのだろう。あるいは、何かがおかしいと思っても、それを素直に表明することはままならなかった。大切なものをなくし、自分自身も生きる意味を問うてしまうような大怪我をしたすずさんが、それでも玉音放送を聞くまで戦争を肯定しようとしていたこと。この歴史を学び直すことは、我々にとっても大切だろう。

以上は私なりの解釈であり、作者らや、他の鑑賞者にはまた違う思いがあるのかもしれない。可愛らしい絵柄のアニメであるが、決してかわいいだけではない。観たあとも、そして翌日になっても、この作品のことを思い出す。それほど印象に残る深みがある。

コトリンゴの歌う「悲しくてやりきれない」も、フワフワと優しいようで、重みも感じさせる。原作マンガ、アニメ映画同様、「ああ、感動した〜。いい作品だった」だけではすませられないような、何かを訴える力を持っている。

ちなみに、エンドロールの最後の最後は、にくい演出だなあと思ったものだ。「物語の終わり」という意味とともに、「誰もがこの世界の片隅に居場所を見つけられる、そんな社会にしてね」というバトンを受け取った気がした。