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スウィートハートの向こう側

ハードボイルド小説を読んでいる。ダシール・ハメット著『マルタの鷹』だ。

タフでクールな探偵が、殺人事件に巻き込まれる。美しいが怪しく謎めいた美女。被害者が持っていたとされる宝を狙って集まってくる輩たち。一見恋人のようでもあるが、まるで母のように主人公をあやし、たしなめる女秘書。そういった面々に囲まれて、探偵は金と暴力を使い惜しむことなく、真相に近づいていく。

セリフが何より特徴的で、主人公は話し相手に「スウィートハート」と呼びかける。女性に対してだけだと思っていたら、男性警察官にもそうしていた。性別は問わないようだ。

「ダーリン」という呼びかけも見逃せない。「君はいい子だ」と秘書に言う場面もなかなか味がある。気になる行動として、ウインクが頻出する。顔が悪魔のような風貌という設定の主人公だが、片目をつぶって合図、などはしょっちゅうだ。

こんな設定今時あるかい!と言いたくなるが、果たして時代を遡ればこういった光景が珍しくない時代がアメリカにはあったのだろうか。近い光景はあったのかもしれない。見てみたいものだ。

主人公はぶっきらぼうで、常に皮肉めいている。女性にモテて適度にあしらうが、自分が相手に夢中になることはない。友人の死にすら表面的には驚いた様子も見せない。しかし、これらは彼の本当の姿なのだろうか。

私には、彼が自分の弱みを見せたくないために、強い男性像を演じているように見える。例えば、「恋愛なんてその時々のお遊びさ」という態度を決め込んでいれば、本気になったときの、自分でコントロールができないほどの高揚感や、その反対の絶望感などは味合わなくて済む。

知り合いが死のうが悲しみの感情を出さない主義であれば、いちいち動揺したり、その醜態を人に晒すこともない。ただゆっくり煙草を巻いて、落ち着いて吸う行為で、小さな驚きを処理すればいいのだ。

だが、そういった一連の動作が、本当の彼の姿を表しているとは私には思えない。悲しければ泣く、寂しければ甘える、そういった「弱さ」も適度に見せられる人のほうが、本当は彼より強いのではないか。

感情をむやみに表に出しすぎるのは、確かにただ幼稚なだけとも取れる。しかし、過剰に感情を押し殺し平気を装う、あるいは平常心を誇示するのは、心の核心に触れられるのが怖いという防衛本能から来ているとも考えられる。私は、彼が煙草を巻く描写を読む度に、平常心を求めるがために彼がポーカーフェイスを〈装っている〉姿が浮かんでくる。

主人公は心から強く何かを思うことはないのだろうか。あるいは、普段我慢している弱さは、女性秘書に対し、腰に触ったりするなどの甘えで十分発散しているのだろうか。感情を出しやすい私からすれば、いつも冷静で羨ましい反面、苦しくないかなといらぬ心配をしてしまう。

もし私が、「あなたのどんなにクールな行動を見ても、どこかしらポーズを取っているように見える。」と主人公に伝えたら、彼はどう答えるだろう。鼻で笑って、「考え過ぎだぜ、スウィートハート」と言われてしまうだろうか。

「スウィートハート」はしばらく私の中で流行語になりそうだ。