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皇帝なんかにはなりたくない

チャップリン監督作『独裁者』を観た。

日本でも多くの人が、観たことはなくてもタイトルは知っていると思う。それに、昨今は世界的に政治が激動していて、ナチスという現象にも再び注目が集まっている。ヒトラーをテーマにした映画の公開も続いていることから、『独裁者』を思い出す人も多いのではないか。

私自身は、「昔に少し観たかな。いや、テレビでダイジェストを観ただけかな。。」というあやふやな記憶だった。一度きちんと観たいなと思いながら何年かたち、やっと先日DVDで鑑賞した。

感想を言えば、なんとも月並みな言葉になる。「最後の演説に圧倒された。」というものだからだ。しかし、本音なのだから仕方ない。本編の最後は、五分ほどの長回しだ。顔がそっくりなためにヒトラーに間違えられたユダヤ人の床屋(チャップリンの二役)が、いきなり大観衆の前で演説をさせられるシーン。

色々と矛盾はある。なぜ、オドオドしていた床屋が突然の名演説をこなせるのか。なぜ、ナチス礼賛の場面で反戦、自由、愛の尊さを説いて、ナチスの将校が誰も止めに入らないのか。しかしながら、この場面ではそういった疑問は意味がないだろう。チャップリンは、話の辻褄よりも、人生をかけた彼自身の主張を優先したかったのだから。

「申し訳ない。私は皇帝なんかにはなりたくない。」スピーチはこのように始まる。そして、「そんなのは私のやることじゃない。誰かを支配したり征服もしたくない。できれば、ユダヤ人にしろキリスト教徒にしろ、黒人にしろ白人にしろ、みんなを助けたいと思っている。」この冒頭だけでも、演説の調子がうかがえるだろう。あまりに理想的すぎ、青臭すぎて、説得力を感じないかもしれない。子どもが聴いても「そんなの可能かな」と思うかもしれない。でもチャップリンの気迫は、私が抱いたそんな予想を数秒で吹き飛ばしてしまった。

カメラは一切動かない。話すほどにヒトラーのような力強さを増しながら(ここはもちろん意図的に似せたのであろうし、ヒトラーに似ているのに徹底したナチスへの抵抗を謳っていることが皮肉でありユーモアなのだろう)、こちら(鑑賞者)を真正面に見ながら床屋は語り続ける。「人は自由に正しく生きていけるはずだ」「兵士たちよ!けだものに身をゆだねてはならない」「みんなは人間なんだ!心に愛を持っているんだ。」と言った言葉が溢れ出るが、私は夢中でそれを観ていた。口をぽかんと開けていたかもしれない。「ああ、世界のリーダーたちがこんなことを思っていたらいいのに。こんな世界になってほしい。」と素直に願った。

さらに演説は続く。最も印象深いのはこのセリフだった。「憎んではならない。ただ愛されない者だけが憎むのだ。」

これは真実を言い当てている。憎むのが良くないのはほとんどの人がわかっているだろう。でも何かに対して憎まざるを得ないような状況に陥ってしまう人がいるからこそ、憎しみが生まれてしまうのだ。「誰々は悪党だ」「戦争はあってはならない」とだけ言うよりも、この短いフレーズで「なぜ憎しみは生まれるのか」に言及することで、この演説の真実味が増していると感じた。

チャップリン研究家である大野裕之著『チャップリンヒトラー メディアとイメージの世界大戦』によれば、この演説の原稿は数え切れないほど何度も推敲されたのだという。また、ナチスはこの映画製作を執拗に妨害してきたというから、誇張でなくチャップリンは命をかけてこの作品を撮ったのだろう。その勇気はとても計り知れない。

全編を通して観て、正直演出やギャグが古いなあと感じたところもある。それはそうだろう。1940年公開の映画なのだから。ずっとお腹を抱えて笑えたわけでもない。しかし、どうしたって最後の演説シーンは一見の価値がある。少なくとも私にはあった。

ちなみに、この演説シーンは無料動画サイトにあがっており、再生回数も多い。「独裁者 演説」で検索すると、日本語字幕付きバージョンが何種類も出てくる。そして多いものは何十万回と再生されている。映画本編を観ていなくても、その迫力は垣間見れるだろう。世の中に疲れたとき、あるいは一瞬でも夢や希望がほしいときに人びとが観ているのだろうかと考えると感慨深い。

なお、演説シーンの訳などは大野氏の著書から引用させていただいた。時代を超えて残る名シーンに出会えたことに感謝している。