「モテたい」の奥にある本当の思い

今日は一冊の本を読んだ。二村ヒトシ著『すべてはモテるためである』。

このタイトル。そして表紙には、下着姿で振り返る目の大きなボブヘアのかわいい女の子。いかにもモテ指南書な雰囲気。ただ、なんとなく初めて知ったときから、これはモテること以上の何かを書いているのではないかと思っていた。

私がこの本を知ったのは昨年ごろだったか。社会学者・上野千鶴子がいろんなところで取り上げて褒めていたので興味を持った。いつか読もうリストに入れたままほぼ一年、やっと偶然に思い出し購入した。

作者は二村ヒトシ、アダルトビデオ監督だ。普段このような職業の方と話す機会もないので、どういった思考を持っているのかにも関心があった。

ページの冒頭、太い大文字でページの真ん中にこう書かれている。「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルイからでしょう。」

なかなかショッキングな言葉だ。これを私が十代、二十代に目にしたら、今よりショックを受けていたかもしれない。しかしこの言葉、いいえて妙だとも感じた。キモチワルイとはストレートな表現だが、それはなにも顔が悪いとかスタイルが悪いとか、そういう表面的なことだけを指しているのではないのだろうと悟った。

現に読み始めると、キモチワルくならないためには、相手の気持ちを尊重できているかどうかが大切だというようなことが書いてあった。清潔にする、適度に自信を持つ、相手の身になって気持ちを想像する、こちらのアクションに相手が嫌そうな素振りを見せたら、不快感を与えることなく素直に引き下がる。おおざっぱにいうとこんなことがまとめられてある。

とはいえ、こらだけならどこかで聞いたことのあるような話にも思える。この本では、特に前半、あくまで率直に「モテ」について追求する。「セックス」という単語も繰り返し出てくる。オブラートに包んだりはしない。

ただ、とにかく女とセックスがしたいだけなのかというとそうではないだろうという。恐らくだれもが、「こんなキモチワルイ自分でも受け入れてくれた」という肯定を欲しがっているのだろうと。

この本は何度か改訂出版されたらしく、今回の最新版では、新たな章が加えられていた。タイトルは「モテてみた後で考えたこと。」15年前に筆者がこの本を出したとき、実は彼はモテていなかったという。モテないがゆえに考えて、辿り着いた結論を文章化したということだ。そして人気作となり、15年ぶりに加筆修正を行い再発売となったとのこと。その際に、先述の新たな第5章が加えられた。

前回執筆時、文章化し考えを整理できたことで、作者は以前よりモテるようになったという。結構なことだ。しかし、なぜか「モテているのに、心が苦しい」という状態になったというのだ。一体それはどういうことか?

本の最後には著者と哲学者・國分功一郎との対話が載っている。そのなかで國分は二村に対し、「つまり、恋されるようになったけど、その中で自分は相手を傷つけるようになり、また自分も苦しくなった。そして自分は実際には恋されたいのではなく、愛されたいと思っていたことにきづいた、と。」と問いかける。すると二村は「気づかざるをえなかったんです!(笑)」と返す。

「女性の「こちらに恋してる感情」や「優しさ」につけいって甘えさせてもらおうとするのは「愛されること」ではなく、ずるい手段を使って「支配すること」と同じだ」と二村は言う。また、「女性から肯定されて愛されたければ、いばるのをやめてその女性の前で「すなおになる」しかないんじゃないか」とも。

これは男性と女性を入れ替えても言えることだろう。単純にモテたからといって幸せになれるわけではない。私が考えるに、二人がちょうど同じ温度で心から互いを思いやれたとき、恋を超えた愛に近いものが生まれるのではないか。言うは易し、行うは難しだが、このシンプルでいて難しい結論に、「モテるには!」「セックスするには!」と解説するアダルトビデオ監督から導かれるとは思わかなった。

最後に、上野千鶴子も気に入っていた文中のセリフがこれだ。「“あなたの居場所”というのは、(中略)『あなたが、一人っきりでいても寂しくない場所』ってことです。」モテるモテない以前に大切なことだし、自分の居場所、あるいは確固たる自分の好きなことがわかっていなければ、例え恋愛できてもそれは相手に対する過度の依存となり、本当の幸せは得られないのではないか。

たまにはこういうジャンルの本もいい。サラッと読めても、後日フッと何処かのフレーズを思い出すことがありそうだ。