「生」とはなにか

映画『エクス・マキナ』を観た。
エクス・マキナとは、(機械仕掛けの神=デウス・エクス・マキナ)という意味。

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AI、つまり人工知能を描いた映画は多く存在する。ロボットが人類に反乱を起こす『ターミネーター』もそうだ。こういうタイプは、従順なロボットを人間に従わせようとした結果、いつしか人工知能のほうが性能を上回り、人類が絶滅の危機に瀕するというのが王道のプロットだ。

AIとは違うが、命の操作に関わるジャンルとしてクローンものがある。『わたしを離さないで』、カズオイシグロ原作映画などだ。のどかな田園にある学校から場面は始まる。平和なようで、何かがおかしい。そして、徐々に驚くべき真実に向き合うこととなる。彼らは人間たちによって作られたクローンだったのだ。主人となる人が病気となったとき、彼らの臓器は主人に移植される。生まれながらにしてそのような運命を背負った人びとだったのである。

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これらはどちらも有名な、そしてエンターテイメントとして描かれたSFだ。しかし、それを手放しに娯楽作品として喜べる時代ではなくなってきている。

まずは『エクス・マキナ』。世界トップの検索エンジン会社社長の大富豪。彼の悲願は完璧なアンドロイドを造ることだった。そこで利用したのが、世界中の人が毎日打ち込む検索ワードなどを含むビッグデータだ。それらを収集すれば、全人類の知識や興味、嗜好がわかる。それをもとに彼はアンドロイドの改良を進めていった。

現実世界の我々も同じような行動をとっている。グーグルなどで検索し、買い物をし、連絡を取り合う。その情報がどこかで誰かが収集していると考えると気持ちのいいものではない。現に、何かのサイトを開けば自分の年齢、性別をターゲットとしたと思しき広告がランダムに目に飛び込んでくることも珍しくない。

それから『わたしを離さないで』。主人公達は生まれながらにして、誰かへの臓器交換に備えて生かされている。こうしたこともすでに世界では起きている。例えば、デザイナーベビーという言葉がある。遺伝子操作した赤ん坊だ。ある子どもが大きな病気を抱え、ドナーが必要なときに、ぴったりな臓器を提供できるように遺伝子の段階で操作した兄弟をまた生むことがある。その赤ん坊がデザイナーベビーだ。そして、臓器移植に耐えられる年齢になると、すぐに兄弟へと臓器を提供するのだ。

この現象はすでに『わたしを離さないで』の話とそう遠くはない。子どもはドナーとなるという目的のもと、完全に操作されて生まれてくる。生まれてきた意味や、人権など、配慮されるべき要素が多くある。果たして人間がそこまで命を操作して良いのか。病気の子どもを救いたいという親の気持ちはよくわかるが、そうやってデザイナーベビーとして生まれてきた側がその事実を知ったときは、自分の存在理由に大きな違和感を抱く可能性がある。各国で論争が起こっている事柄だ。こういったケースが行き過ぎると、『わたしを離さないで』のような出来事も実現化しないとも限らない。

監視社会。AIやクローンの創造。それらは目前に展開していて、その進化を止めることは難しい。立場によって見解は別れる。そして、技術の進歩の可能性があれば、その研究を突き詰めてみたくなるのが人間だ。しかし今一度、命の操作の意味について、研究者に限らない、市民一人ひとりが考えるべきときなのではないか。

これらのSF映画は、娯楽のつもりで観た私に、重いメッセージを投げかけてきた。それだけ心に残ったのは、良い作品だったからだろう。