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バスタブで執筆する男 トランボ

このブログでは、日々なんとなく思ったことを書き綴っていきたい。

例えば、趣味で観た映画の批評や感想。いまだ映画史その他の知識が不足しており、表層批評の域を出ないが、まずは素直な自分の思いを考察してみたい。時には私が影響を受けている映画評論家たちからの情報も参考にするつもりだ。

先日、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』を観た。

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これは、ハリウッドでかつて行われた赤狩り時代の実話だ。ハリウッドテンという十人の脚本家らが、共産党員だということで弾圧を受ける。強固に意思を貫いた者たちは投獄された上に、出所後はハリウッドから干され、脚本家としての仕事ができなくなる。

主人公はダルトン・トランボ。このおじさんがいい。何がいいって、知性とひょうひょうとした雰囲気をなんともいえないバランスでうまく醸し出している。そして粘り強い。出所後は、自分がかつてエリート脚本家だったことにはこだわらず、金と女にしか目がない経営者が営むB級映画専門の会社に潜り込み、はした金でB級作品を書きまくる。

こんなことができる人は現代でも何人いるだろうか。名誉もズタボロ、それどころか、監視員がついていて常に行動をチェックされている。こんな危ない状況では、精神を病みかねないし、あるいは向上心よりもとりあえず無難な勤め人として穏やかな生活を選ぶ人がほとんどではないか。だがトランボは違った。彼には妻と三人の子どももいるので、その責任も重い。リスキーで重労働、質も報酬も大きく下がり、自分の名前すらクレジットできないという悔しさにも耐え、トランボは書きまくる。書いていくなかで、その脚本が評価されれば、また自分や仲間たちの名誉回復と仕事のチャンスに繋がると信じたのだ。

物書きとしての執念を感じる。私が好きなのは、トランボがバスタブで作品を書くシーンだ。即席のテーブルをバスタブに乗せ、周りに筆記用具を起き、裸のおじさんが時間を忘れて執筆に励む。お風呂の時間すらもったいないのか、あるいは机に向かって書くのとは違い、いいアイデアが浮かぶから時々そうするのか。とにかくその熱量に反比例して、滑稽でもあるその光景が愛らしい。

かつては家族思いだった彼が、家族行事をすっぽかすどころか、ストレスで怒鳴り散らすことが多くなる描写など、切なさも感じる。才能ある人が最大の情熱を何かに傾けたとき、愛する者たちとの間に亀裂が生じてしまう悲しさがよく描かれている。

執筆スタイルは主にタイプライター。「タンタンタンタンタンタン。。。」という、あの独特のかなり大きな音を出しながら、昼も夜もタイプを続けるトランボ。そのバックにはジャズが軽快に流れる。この組み合わせ、まさに1950年代頃のアメリカの作家を描くにはもってこいで、心躍らずにはいられない。

もう一つ忘れてはいけないアイテムがタバコ。あれは葉巻だろうか?常に口に加えて、とんでもない量の煙をもくもくとふかしている。昨今では肩身の狭くなった喫煙行為だが、この時代は堂々たるものだ。タバコを加えていないシーンのほうが少ないのでは。私自身は吸わないが、やっぱり映画でこういうキャラクターがもくもくとタバコを吸うのはかっこよくうつる。それはもう、幼い頃からの映像イメージとともに頭に刷り込まれてしまっているので、抗えない気持ちだ。

B級映画とはいえ、もともとの才能がずば抜けているトランボなので、そのうち傑作を書き上げる。『黒い牡牛』だ。名作として今でも知られているが、なかなかソフトを探すのが難しいらしい。名前は知っているが、私は観たことがない。しかし、この作品をトランボが書いたとは知らなかった。ギャングや怪物の話ではなく、メキシコ農場が舞台で、ある少年と子牛の交流を描いた家族向けのドラマだ。そしてこれは、アカデミー最優秀原案賞を受賞する。迫害されたトランボの作品だとは知らないまま、映画業界はこの作品を高く評価する。同様に、かの名作『ローマの休日』もトランボが偽名を使ってアカデミー最優秀原案賞を獲得する。まさに、不屈の精神で書いた、真に価値ある作品が、世間の不条理をはねのけて評価を物にした瞬間だ。

最後には、名誉回復を成し遂げたトランボや仲間たち。私はなんともすがすがしい気持ちで劇場をあとにした。しかしその後、映画評論家の町山智浩による解説を聴き直して、すこし感想を改めた。

町山氏によると、この映画がアメリカで公開されるやいなや、保守系メディアから大バッシングを受けたらしい。理由は、トランボが信奉していた共産主義は単なる理想であって、実際にソ連スターリンなどが行っていた共産政治はそんな夢のような世界ではなかった。その理想と現実の乖離を説明できていないのが良くないというのだ。

確かにトランボは、娘に共産主義について説明するとき、「パンは皆で分けて食べよう」といったようなシンプルな説明しかしていない。共産主義国は行き過ぎると独裁政治に結びつき、時には大虐殺というとんでもない方向へと向かってしまう。それに、トランボが何より求めた言論の自由も、ソ連には存在しなかった。そのような現実に、彼はまだ気づいていなかったのだ。

実際、トランボの後年の作品では、「自分の人生を無駄にしてしまった」といった趣旨の言葉を俳優に喋らせており、これは自分が多大な犠牲を払って共産主義というものに人生を狂わせてしまったということへの言及ではないか、と町山氏は語る。彼の推測が正しいかどうかはまた検証すべきだが、確かに、全く正しいイデオロギーや、その行動に一点の間違いもない活動家はそもそもいるはずがない。その点を忘れて、「トランボは素晴らしい」と絶賛することには心の何処かで違和感のあった私には、この解説が腑に落ちた。

そうはいっても、トランボが不屈の精神の持ち主だっだということ、そして赤狩りの時代のハリウッドの状況を知ることができたこの作品は見ごたえがあった。テンポ良く見せていく監督の手腕にも賛辞を送りたい。観てよかったと堂々と言える映画だ。

最後に、個人的に驚いたことがある。『ジョニーは戦場へ行った』の原作、及びその映画版の監督もトランボだったことだ。私は小説しか読んでいないが、内容は思い出すだけでも辛いものだ。第一次世界大戦で重傷を負ったジョニーという青年。彼はベッドで目覚めるが、どうも感覚が変である。どうやら、砲弾を受け、目、鼻、口、耳を失い、さらに手術で四肢を切断されてしまうのだ。何も見えない、聞こえない、動けないのに、意識と皮膚感覚だけはあり、痛みは感じてしまう。わずかに動く首と頭だけを使い、彼はモールス信号で看護婦にメッセージを伝えようとする。「死なせてくれ」と。

正直、私はこの映画版をまだ観られていない。観る勇気がないのだ。いつかは観なければと思っている作品である。その作品をトランボが書いていたとは驚きであった。

多くを学べた作品だ。