ゴジラと三葉

2016年の夏は二本の映画が大ヒットしている。庵野秀明監督の実写作品『 シン・ゴジラ』と、新海誠監督のアニメ作品『君の名は。』だ。

前者は『エヴァンゲリオン』 テレビシリーズや映画で圧倒的な人気を誇るアニメ監督。 ただしこれまでに実写でもいくつか撮っており、 それらは良くも悪くも実験的、アート系で、 そこまでのヒットはしていない。後者は『秒速5センチメートル』 を始めとしたいくつかの人気作があり、 絵の美しさで有名なアニメ監督だ。 彼はアニメファンからは絶大な人気があったが、 大きな劇場で作品がかかり、 大ヒットを記録するというタイプの知名度ではなかった。

二人の共通点は「オタク」という点だろう。徹底してこだわり、 妥協を許さない。 だからこそマニアにはたまらない質の作品を作るが、 その世界観に入っていない大勢の人には、 マニアックすぎて近づく気を起こさせないところもあると思う。 エヴァンゲリオンはある程度ストーリーがわからなければ、 途中の一話を観たところでなにもわからない。新海誠作品も、 絵の凝ったアニメ恋愛ものという印象も強く、 その手に馴染みのない人には食指が動かないタイプだったろう。

しかし、今回公開された彼らの映画は、両方ともオタク層、 熱心なファン層を超えて、 一般客にも広くアピールしたと感じている。一方は「ゴジラ」 という、 日本でもトップクラスに有名なキャラクターを使っていたからかも しれない。あるいはもう一方は、今までのミニシアター系でなく、 シネコンでかなり前から大きく宣伝していたからかもしれない。

加えて共通するのは、『シン・ゴジラ』でのキャストや『 君の名は。』 の声優がかなりの有名俳優揃いだったこともあるだろう。 その名前が出るだけで集客は違う。また、 メディアへの露出頻度にも歴然とした差が出る。 作品への敷居が低くなり、いわゆる「話題作」という印象で、 世代を超えて観に行きたくさせる雰囲気を作り出せる。『 君の名は。』ではさらに、 全篇でRADWIMPSが音楽を担当した。 特に若者に支持されているこの人気バンドとタッグを組んだことも 大きかっただろう。

以上が、これら二本が安定してヒットを飛ばした要因だと思うが、 その人気が続き、口コミでの集客や、 あるいは多くのリピーターさえ生み出したのは、 作品の質が良かったことに他ならないだろう。それも、単に「 良くできた作品」というだけでなく、 それぞれに人びとを引きつける大きな魅力があった。

まず『シン・ゴジラ』は、楽しめると同時に、 それに対する解釈や批評をしたくなるストーリーである。 凶暴なゴジラがやってきた、人間も闘った、ああめでたし、 だけでは済ませられない何かを観客に感じさせる。それは、ゴジラの襲来が、 我々日本人が体験した3.11の津波という災害や原子力発電事故、そしてその後の我々の対応といった、 誰にも身近な経験を思い出させるからだ。そして、 この映画を通して何に気づけるかを考えたくなる作りになっている のだ。 猛スピードで進んでいくセリフや展開の一つ一つにこだわりがある のが感じられ、それらの謎を解きたくなるのである。

他方、『君の名は。』は、一見するとファンタジー要素の強い、高校生同士の淡い恋愛ものというくくりで終わってしまいそうな作品だ。 しかし実際はそうではない。ミステリー要素も加えつつ、 実はこちらにも3.11を彷彿とさせるような現象が絡む。 このときの舞台は、『シン・ゴジラ』 のような日本の中心地でなく、飛騨の片田舎だ。 田舎に大災害が起きるかもしれないことがわかり、 なんとか町民を救え出せないかと力を尽くす場面がある。これは、東日本大震災時の津波を思い出させる。主人公の一人、片田舎に住む少女三葉(みつは)は、ある意味その自然現象を我々に思い出させる機能を有しているのではと考える。

ゴジラという巨大不明生物、そして自然災害。そういった 想定外の事態に直面したときに、人間は何ができるのか。 そんなことを見ている側に問う作品に思えた。また、 そもそも核エネルギーや自然災害はすぐ近くに存在しているものであり、 人間は常にそれらと隣り合わせで生きているということを気付かさ せる物語でもあった。『君の名は。』 を観てそこまで連想した人が多いのか少ないのかはわからないが、 私は、このような意図も読み取れると感じた。

オタク向けと思われていたかもしれないこれらの作品が、 一般の人も楽しめる娯楽作品として昇華し、 なおかつそのクオリティやこだわりは今まで以上にスケールアップ していることが、なんだか嬉しい夏であった。 日本映画界の大きなステップになるのではと予想する。
 
 

スウィートハートの向こう側

ハードボイルド小説を読んでいる。ダシール・ハメット著『マルタの鷹』だ。

タフでクールな探偵が、殺人事件に巻き込まれる。美しいが怪しく謎めいた美女。被害者が持っていたとされる宝を狙って集まってくる輩たち。一見恋人のようでもあるが、まるで母のように主人公をあやし、たしなめる女秘書。そういった面々に囲まれて、探偵は金と暴力を使い惜しむことなく、真相に近づいていく。

セリフが何より特徴的で、主人公は話し相手に「スウィートハート」と呼びかける。女性に対してだけだと思っていたら、男性警察官にもそうしていた。性別は問わないようだ。

「ダーリン」という呼びかけも見逃せない。「君はいい子だ」と秘書に言う場面もなかなか味がある。気になる行動として、ウインクが頻出する。顔が悪魔のような風貌という設定の主人公だが、片目をつぶって合図、などはしょっちゅうだ。

こんな設定今時あるかい!と言いたくなるが、果たして時代を遡ればこういった光景が珍しくない時代がアメリカにはあったのだろうか。近い光景はあったのかもしれない。見てみたいものだ。

主人公はぶっきらぼうで、常に皮肉めいている。女性にモテて適度にあしらうが、自分が相手に夢中になることはない。友人の死にすら表面的には驚いた様子も見せない。しかし、これらは彼の本当の姿なのだろうか。

私には、彼が自分の弱みを見せたくないために、強い男性像を演じているように見える。例えば、「恋愛なんてその時々のお遊びさ」という態度を決め込んでいれば、本気になったときの、自分でコントロールができないほどの高揚感や、その反対の絶望感などは味合わなくて済む。

知り合いが死のうが悲しみの感情を出さない主義であれば、いちいち動揺したり、その醜態を人に晒すこともない。ただゆっくり煙草を巻いて、落ち着いて吸う行為で、小さな驚きを処理すればいいのだ。

だが、そういった一連の動作が、本当の彼の姿を表しているとは私には思えない。悲しければ泣く、寂しければ甘える、そういった「弱さ」も適度に見せられる人のほうが、本当は彼より強いのではないか。

感情をむやみに表に出しすぎるのは、確かにただ幼稚なだけとも取れる。しかし、過剰に感情を押し殺し平気を装う、あるいは平常心を誇示するのは、心の核心に触れられるのが怖いという防衛本能から来ているとも考えられる。私は、彼が煙草を巻く描写を読む度に、平常心を求めるがために彼がポーカーフェイスを〈装っている〉姿が浮かんでくる。

主人公は心から強く何かを思うことはないのだろうか。あるいは、普段我慢している弱さは、女性秘書に対し、腰に触ったりするなどの甘えで十分発散しているのだろうか。感情を出しやすい私からすれば、いつも冷静で羨ましい反面、苦しくないかなといらぬ心配をしてしまう。

もし私が、「あなたのどんなにクールな行動を見ても、どこかしらポーズを取っているように見える。」と主人公に伝えたら、彼はどう答えるだろう。鼻で笑って、「考え過ぎだぜ、スウィートハート」と言われてしまうだろうか。

「スウィートハート」はしばらく私の中で流行語になりそうだ。

皇帝なんかにはなりたくない

チャップリン監督作『独裁者』を観た。

日本でも多くの人が、観たことはなくてもタイトルは知っていると思う。それに、昨今は世界的に政治が激動していて、ナチスという現象にも再び注目が集まっている。ヒトラーをテーマにした映画の公開も続いていることから、『独裁者』を思い出す人も多いのではないか。

私自身は、「昔に少し観たかな。いや、テレビでダイジェストを観ただけかな。。」というあやふやな記憶だった。一度きちんと観たいなと思いながら何年かたち、やっと先日DVDで鑑賞した。

感想を言えば、なんとも月並みな言葉になる。「最後の演説に圧倒された。」というものだからだ。しかし、本音なのだから仕方ない。本編の最後は、五分ほどの長回しだ。顔がそっくりなためにヒトラーに間違えられたユダヤ人の床屋(チャップリンの二役)が、いきなり大観衆の前で演説をさせられるシーン。

色々と矛盾はある。なぜ、オドオドしていた床屋が突然の名演説をこなせるのか。なぜ、ナチス礼賛の場面で反戦、自由、愛の尊さを説いて、ナチスの将校が誰も止めに入らないのか。しかしながら、この場面ではそういった疑問は意味がないだろう。チャップリンは、話の辻褄よりも、人生をかけた彼自身の主張を優先したかったのだから。

「申し訳ない。私は皇帝なんかにはなりたくない。」スピーチはこのように始まる。そして、「そんなのは私のやることじゃない。誰かを支配したり征服もしたくない。できれば、ユダヤ人にしろキリスト教徒にしろ、黒人にしろ白人にしろ、みんなを助けたいと思っている。」この冒頭だけでも、演説の調子がうかがえるだろう。あまりに理想的すぎ、青臭すぎて、説得力を感じないかもしれない。子どもが聴いても「そんなの可能かな」と思うかもしれない。でもチャップリンの気迫は、私が抱いたそんな予想を数秒で吹き飛ばしてしまった。

カメラは一切動かない。話すほどにヒトラーのような力強さを増しながら(ここはもちろん意図的に似せたのであろうし、ヒトラーに似ているのに徹底したナチスへの抵抗を謳っていることが皮肉でありユーモアなのだろう)、こちら(鑑賞者)を真正面に見ながら床屋は語り続ける。「人は自由に正しく生きていけるはずだ」「兵士たちよ!けだものに身をゆだねてはならない」「みんなは人間なんだ!心に愛を持っているんだ。」と言った言葉が溢れ出るが、私は夢中でそれを観ていた。口をぽかんと開けていたかもしれない。「ああ、世界のリーダーたちがこんなことを思っていたらいいのに。こんな世界になってほしい。」と素直に願った。

さらに演説は続く。最も印象深いのはこのセリフだった。「憎んではならない。ただ愛されない者だけが憎むのだ。」

これは真実を言い当てている。憎むのが良くないのはほとんどの人がわかっているだろう。でも何かに対して憎まざるを得ないような状況に陥ってしまう人がいるからこそ、憎しみが生まれてしまうのだ。「誰々は悪党だ」「戦争はあってはならない」とだけ言うよりも、この短いフレーズで「なぜ憎しみは生まれるのか」に言及することで、この演説の真実味が増していると感じた。

チャップリン研究家である大野裕之著『チャップリンヒトラー メディアとイメージの世界大戦』によれば、この演説の原稿は数え切れないほど何度も推敲されたのだという。また、ナチスはこの映画製作を執拗に妨害してきたというから、誇張でなくチャップリンは命をかけてこの作品を撮ったのだろう。その勇気はとても計り知れない。

全編を通して観て、正直演出やギャグが古いなあと感じたところもある。それはそうだろう。1940年公開の映画なのだから。ずっとお腹を抱えて笑えたわけでもない。しかし、どうしたって最後の演説シーンは一見の価値がある。少なくとも私にはあった。

ちなみに、この演説シーンは無料動画サイトにあがっており、再生回数も多い。「独裁者 演説」で検索すると、日本語字幕付きバージョンが何種類も出てくる。そして多いものは何十万回と再生されている。映画本編を観ていなくても、その迫力は垣間見れるだろう。世の中に疲れたとき、あるいは一瞬でも夢や希望がほしいときに人びとが観ているのだろうかと考えると感慨深い。

なお、演説シーンの訳などは大野氏の著書から引用させていただいた。時代を超えて残る名シーンに出会えたことに感謝している。

小さな習慣

私には癖がある。 家の車庫から誰かが車に乗って去っていく時には、 道の真ん中まで出て、 その車が曲がり角を曲がって完全に見えなくなるまで中の人に手を 振り続けることだ。

この行動を始めたのは祖母が運転する車を見送りだした時から。 祖母は八十歳近くまで車を運転していた。 私の家まで約二十分かかる道のりを、 一人で運転して訪ねてきてくれていた。私が小さな頃から、「 さすがに八十になる前には免許証を返還して。事故が心配だ」 と家族から求められるまでは。

わざわざ来てくれた祖母に感謝の気持ちを伝えたかったのだろう。 そこまで振らなくていいよと周りに言われるほど、 手を振り続けるのが習慣になった。 祖母はそれをバックミラーで見て、「ピッ」 とクラクションを鳴らして返事をしてくれたものだ。

最近そういう行為を続けていたからか、その癖を思い出した。 帰省していた妹家族と両親が遊びに出かける時もそうだった。 そしてついさっき、 一時帰宅していた一番下の妹が両親に連れられて病院へ戻って行っ た時もそうした。私はペーパードライバーだから、 ちょっと駅まで送るよということすら怖くてできない。それにこの歳になると、「みんな楽しんできて、 私は一人で留守番しておくし」と言うことも多い。 よってたいていは見送る側になる。ついでに、 誰かの車に同乗者として乗る機会もあまりなくなった。

そして手が空いていたら外で見送るのだが、 どうしても車道まで出て長く手を振る癖がやめられない。「 一生の別れでもないんだから」と自分で思うのだが、 人はいつ永遠にサヨウナラとなるかもわからない。それに、 自分が運転して送っていったりもできず、 家で留守番するということに引け目を感じているのかもしれない。

わずか十五秒程度のことだが、 手を振るたびに滑稽かなあとも感じる。 灼熱だったり極寒だったりしても意地でも見届けたくなる。 中の誰かが気づいて喜んでくれれば良いが、 別にそうでなくても構わない。見送ってたよ、 という事実が自分にほしいのだろう。自分が逆の立場なら「 もういいよ、暑いし(寒いし)家に入って」と思うのだが。

何気ない日常の一コマ。 きっと私はこれからも手を振り続けるだろう。
 
 

束の間の眠り、そしてまたも覚醒

朝の六時頃、ついに眠りに落ちることができた。幸せだ。しかし、三時間後の九時にはお目々がぱっちり開いていた。開かんでいいって。。とつっこみたい。それからあれこれして、また寝ようと布団に入ったが眠れない。

 ひたすら眠りたいと布団でゴロゴロして何時間も経つ、 しかも寝不足による気分の悪さとともに、というのは、 心身ともに辛いものがある。 単純に吐き気がするのがしんどいのと、勉強も遊びもできず、 何も生み出せていない焦りに胸が苦しくなるからだ。

あまりに不眠症が続くので、 不眠症が出てくる映画を集めたことがある。 それぞれの作品における不眠症の描かれ方を紹介しよう。

まずはブラッド・アンダーソン監督の『マシニスト』。 主人公の男は不眠症を患い、 いつも深夜に近所の空港のレストランに行き、コーヒーを飲む。 馴染みのウエイトレスと話すとこで癒やされてもいる。 たまに家で本を読むが、読み疲れていい具合に眠りに落ちそう! というところで本を落とし、その音で目覚めてしまう。 同情せずにはいられない。彼の体は痩せ細り、 まるで骸骨のようだ。その不眠症は一年続いており、 彼はほぼ一睡もしていないという。 そんなことが可能なのだろうか。私のような、「気分が悪くなる」 レベルを超えているだろう。 地に足がつかないようなフワフワした感覚になるのではないか。 機械工の彼が、 そんな状態でいつ怪我をしないかハラハラしないではいられない。

次はクリストファー・ノーラン監督の『インソムニア』。アル・ パチーノとロビン・ウィリアムズが共演している。アル・ パチーノ演じる刑事は、 アラスカに赴任されてある殺人事件を捜査している。 犯人を霧の中で追い詰めたとき、 彼は誤って仲間を撃ってしまうが、 そのことを皆に告白できずにいる。彼は精神的に参っていき、 白夜も手伝い、三日間不眠が続いてしまう。 泊まっているホテルのカーテンでは白夜の光が漏れてしまい、 ガムテープでカーテンの端を壁にバリバリと貼って一切の光を遮ろ うとする姿が辛い。鬱々とした雰囲気の漂うこの映画では、 あのアル・パチーノすら不眠に陥ってしまうのだ。

この二本だけでも、陰鬱な雰囲気を感じ取れたと思う。活動して、 疲れて、夜いつもの時間に寝る。 そして翌朝いつもの時間に起きる。 これは普段はなんとも思わない行動だ。ただ、 いったんペースを崩してしまうと取り戻すのは難しい。 心地よい眠りの習慣は、いまの私にとっては憧れの存在である。

人の心は不思議だ。私は、 この病気は体調より心が関わっていると感じている。 不眠になったきっかけは思い出せない。たぶん、 なんてことない小さな心配事が重なってという程度だろう。 それを繰り返すうちに、 体がパターン化してしまったのではないか。 始まりがなんとなくだったということは、 終わりも唐突に訪れないとも言えない。それを信じて、 毎日夜を迎える。ホットミルク、アロマオイルなど、 なるべく心休まるものを試しながら、 気長にゆっくり付き合っていきたいものだ。
 
 

眠れない夜を超えて朝になったよ

 
不眠症

この言葉は世間でどれほどの認知度を得ているだろうか。 私は不眠である。かれこれ15年ほど。 調子のアップダウンはあるが、ここ数日またひどい。

12時頃にはベッドに入る。電気を消す。が、眠れない。
本を読む。眠れない。
音楽を聴く。ラジオを聴く。動画を見る。
眠れない。

謎だ。明らかに疲れていて、 その前の夜も眠れなくて睡眠を渇望しているはずなのに眠気がこな い。私の身体はどうなっているのか。

もう朝の六時。「また深夜だよ。。」と思っていたのに、 気づけば「いま起床したら健康的な早起き」 という時間になってしまった。

分厚く長い遮光カーテン。 けどさすがに明るい朝の日差しが隙間から覗いている。 カラスがカアカア鳴いている。 新聞配達のバイク音はとっくに聞こえている。「 また朝になってしまった。」と心で呟く。

ここからはさすがの私でも眠気が来るだろう。ただし、 数時間ごとに目が覚めるのがパターンだ。起きるたびに「はあ、 また起きてしまった。睡眠入道剤を一欠片飲むか否か」 と思い悩む。

なるべくなら少しでも早く寝付きたいと思いながらする夜中の色々 は、読書も含め、思い切り楽しめることは少ない。 わりきって本をがつがつ読めたなら、教養となっていいのになあ。

こんな思いしてる人がいたら、せめてもの慰めあいができたなら、ジョークでも言って楽しく過ごせるだろうか。不眠友希望。メールしすぎたらますます不眠が悪化かな。

お、ここまできたら、あの睡魔独特のふわふわ感がやってきた。 目が半目。さっきから打ち間違いも多い。これはいい兆候だ。

筆を、置く。。ばたり。
 
 

戦争について

今は8月。ということで、戦争について考える機会が多い。日々「平和」を願いっているものの、それがどうやったら維持できるのかは学ぶほどに難しい。「戦争は嫌だ。平和がいい」と思うことは、1980年代生まれの私の世代では普通のことだと思っていた。そして、その平和を維持するために、「今後は戦争をしない」という日本が行った決断は誇るべきものだとも思ってきた。

思えば平和な時代を生きてこれていたのだろう。同じ平和を得るためにこそ武力を持つべきだと言う考えを良く知ることすらなく、三十代を越えてしまった。昨今は日本は武力を持つべきか、持つとしたら自衛を完璧にできるほどの程度持つべきなのか、はたまた同盟国から要請があればすぐに参戦できるほどの軍備を整えておきべきか。そういった選択で世間は揺れている。驚いたのは、若い層でも日本の武力拡大に賛成な割合が多いという事実だ。

先程「平和な時代を生きてこれていたのだろう」と書いたが、全くの平和は存在しないとも思う。社会ではいつも誰かがより得をして、誰かが損をしている。ただし、何を「得」と定義づけるのかで意味は違ってくる。しかしともかくも、自分が圧倒的不利な状況にいなかったというだけのことであって、この日本でも苦しい立場で生きてきた人はすでに数えきれないのだろう。周りを見回しても不条理なことは多いし、私だって「なんでこうなるんだろう」と嘆くこともある。そういった個々人の苦境を社会が協力して救い合わない方向へ進んでしまえば、この状況を一変させる突破口を望む人が現れるのも理解できる。そのモヤモヤは、「愛国」や「伝統」などといったわかりやすいカタルシスに繋がっている気がする。そのどちらも大切なものだが、様ざまな考えを持った個人が互いに押し付け合うものになってしまえば、それは本来の意味をなくしてしまうと感じる。

戦争がいかに恐ろしいものかを実際に知る人は、どんどんこの世からいなくなっている。残されたものは思考し、想像するしかない。いったん初めてしまえば、終わらせることが困難な戦争。異なった大義でぶつかり合う、互いに「正義」を信じて始まる戦争。やはりどう考えても、積極的に交戦する力を持つこと、義務を負うことには抵抗がある。

まだまだ勉強の途中だが、平和をなくさないために自分はどういう希望を持っているのか、そして微力ながらも何ができるのだろうかということを、普段よりは考えたくなる夏だ。