束の間の眠り、そしてまたも覚醒

朝の六時頃、ついに眠りに落ちることができた。幸せだ。しかし、三時間後の九時にはお目々がぱっちり開いていた。開かんでいいって。。とつっこみたい。それからあれこれして、また寝ようと布団に入ったが眠れない。

 ひたすら眠りたいと布団でゴロゴロして何時間も経つ、 しかも寝不足による気分の悪さとともに、というのは、 心身ともに辛いものがある。 単純に吐き気がするのがしんどいのと、勉強も遊びもできず、 何も生み出せていない焦りに胸が苦しくなるからだ。

あまりに不眠症が続くので、 不眠症が出てくる映画を集めたことがある。 それぞれの作品における不眠症の描かれ方を紹介しよう。

まずはブラッド・アンダーソン監督の『マシニスト』。 主人公の男は不眠症を患い、 いつも深夜に近所の空港のレストランに行き、コーヒーを飲む。 馴染みのウエイトレスと話すとこで癒やされてもいる。 たまに家で本を読むが、読み疲れていい具合に眠りに落ちそう! というところで本を落とし、その音で目覚めてしまう。 同情せずにはいられない。彼の体は痩せ細り、 まるで骸骨のようだ。その不眠症は一年続いており、 彼はほぼ一睡もしていないという。 そんなことが可能なのだろうか。私のような、「気分が悪くなる」 レベルを超えているだろう。 地に足がつかないようなフワフワした感覚になるのではないか。 機械工の彼が、 そんな状態でいつ怪我をしないかハラハラしないではいられない。

次はクリストファー・ノーラン監督の『インソムニア』。アル・ パチーノとロビン・ウィリアムズが共演している。アル・ パチーノ演じる刑事は、 アラスカに赴任されてある殺人事件を捜査している。 犯人を霧の中で追い詰めたとき、 彼は誤って仲間を撃ってしまうが、 そのことを皆に告白できずにいる。彼は精神的に参っていき、 白夜も手伝い、三日間不眠が続いてしまう。 泊まっているホテルのカーテンでは白夜の光が漏れてしまい、 ガムテープでカーテンの端を壁にバリバリと貼って一切の光を遮ろ うとする姿が辛い。鬱々とした雰囲気の漂うこの映画では、 あのアル・パチーノすら不眠に陥ってしまうのだ。

この二本だけでも、陰鬱な雰囲気を感じ取れたと思う。活動して、 疲れて、夜いつもの時間に寝る。 そして翌朝いつもの時間に起きる。 これは普段はなんとも思わない行動だ。ただ、 いったんペースを崩してしまうと取り戻すのは難しい。 心地よい眠りの習慣は、いまの私にとっては憧れの存在である。

人の心は不思議だ。私は、 この病気は体調より心が関わっていると感じている。 不眠になったきっかけは思い出せない。たぶん、 なんてことない小さな心配事が重なってという程度だろう。 それを繰り返すうちに、 体がパターン化してしまったのではないか。 始まりがなんとなくだったということは、 終わりも唐突に訪れないとも言えない。それを信じて、 毎日夜を迎える。ホットミルク、アロマオイルなど、 なるべく心休まるものを試しながら、 気長にゆっくり付き合っていきたいものだ。
 
 

眠れない夜を超えて朝になったよ

 
不眠症

この言葉は世間でどれほどの認知度を得ているだろうか。 私は不眠である。かれこれ15年ほど。 調子のアップダウンはあるが、ここ数日またひどい。

12時頃にはベッドに入る。電気を消す。が、眠れない。
本を読む。眠れない。
音楽を聴く。ラジオを聴く。動画を見る。
眠れない。

謎だ。明らかに疲れていて、 その前の夜も眠れなくて睡眠を渇望しているはずなのに眠気がこな い。私の身体はどうなっているのか。

もう朝の六時。「また深夜だよ。。」と思っていたのに、 気づけば「いま起床したら健康的な早起き」 という時間になってしまった。

分厚く長い遮光カーテン。 けどさすがに明るい朝の日差しが隙間から覗いている。 カラスがカアカア鳴いている。 新聞配達のバイク音はとっくに聞こえている。「 また朝になってしまった。」と心で呟く。

ここからはさすがの私でも眠気が来るだろう。ただし、 数時間ごとに目が覚めるのがパターンだ。起きるたびに「はあ、 また起きてしまった。睡眠入道剤を一欠片飲むか否か」 と思い悩む。

なるべくなら少しでも早く寝付きたいと思いながらする夜中の色々 は、読書も含め、思い切り楽しめることは少ない。 わりきって本をがつがつ読めたなら、教養となっていいのになあ。

こんな思いしてる人がいたら、せめてもの慰めあいができたなら、ジョークでも言って楽しく過ごせるだろうか。不眠友希望。メールしすぎたらますます不眠が悪化かな。

お、ここまできたら、あの睡魔独特のふわふわ感がやってきた。 目が半目。さっきから打ち間違いも多い。これはいい兆候だ。

筆を、置く。。ばたり。
 
 

戦争について

今は8月。ということで、戦争について考える機会が多い。日々「平和」を願いっているものの、それがどうやったら維持できるのかは学ぶほどに難しい。「戦争は嫌だ。平和がいい」と思うことは、1980年代生まれの私の世代では普通のことだと思っていた。そして、その平和を維持するために、「今後は戦争をしない」という日本が行った決断は誇るべきものだとも思ってきた。

思えば平和な時代を生きてこれていたのだろう。同じ平和を得るためにこそ武力を持つべきだと言う考えを良く知ることすらなく、三十代を越えてしまった。昨今は日本は武力を持つべきか、持つとしたら自衛を完璧にできるほどの程度持つべきなのか、はたまた同盟国から要請があればすぐに参戦できるほどの軍備を整えておきべきか。そういった選択で世間は揺れている。驚いたのは、若い層でも日本の武力拡大に賛成な割合が多いという事実だ。

先程「平和な時代を生きてこれていたのだろう」と書いたが、全くの平和は存在しないとも思う。社会ではいつも誰かがより得をして、誰かが損をしている。ただし、何を「得」と定義づけるのかで意味は違ってくる。しかしともかくも、自分が圧倒的不利な状況にいなかったというだけのことであって、この日本でも苦しい立場で生きてきた人はすでに数えきれないのだろう。周りを見回しても不条理なことは多いし、私だって「なんでこうなるんだろう」と嘆くこともある。そういった個々人の苦境を社会が協力して救い合わない方向へ進んでしまえば、この状況を一変させる突破口を望む人が現れるのも理解できる。そのモヤモヤは、「愛国」や「伝統」などといったわかりやすいカタルシスに繋がっている気がする。そのどちらも大切なものだが、様ざまな考えを持った個人が互いに押し付け合うものになってしまえば、それは本来の意味をなくしてしまうと感じる。

戦争がいかに恐ろしいものかを実際に知る人は、どんどんこの世からいなくなっている。残されたものは思考し、想像するしかない。いったん初めてしまえば、終わらせることが困難な戦争。異なった大義でぶつかり合う、互いに「正義」を信じて始まる戦争。やはりどう考えても、積極的に交戦する力を持つこと、義務を負うことには抵抗がある。

まだまだ勉強の途中だが、平和をなくさないために自分はどういう希望を持っているのか、そして微力ながらも何ができるのだろうかということを、普段よりは考えたくなる夏だ。

働き方再考

 
いつもよくしてもらっている方が、仕事のストレスで辛いようだ。 日本のシステムはどこかがおかしい。 やってもやっても終わらない仕事、 なぜこのようなことになるのか。 その方は確実に知性もあり事務処理能力も高い。 それでも一日たりともゆっくりしているのを見たことがない。

鬱の人も増えている。知り合いでも、親戚でも、 心の病を抱えている、あるいは抱えていたという人は意外に多い。 そういう人たちは大抵真面目で、限度まで頑張る。 うまく手を抜くこともできず、 理不尽な職場環境であっても耐えてしまう。学生でも、 すべてを抱え込んでしまう人がいる。不憫だ。

資本主義が行き渡るのは良いことだが、 行き過ぎると理不尽なことも多々起きる。 低価格競争が激しくなる。 人間が本来望む以上のサービスや品物を生産しようとして、 従業員は安月給で長時間労働を余儀なくされる。 24時間営業の店がこんなになくてもよいと、 私は常々思っている。 今はスマホとパソコンのお陰でみんな仕事から離れることができな い。不思議なことだが、 科学技術が発達すればどんどん人類は楽で便利な暮らしが可能とな ると思ったものの、実際は仕事の量が増えている。 連絡メールは際限なく送られ、 完全なプライベートの時間はないに等しい。

仕事の偏りも問題だ。あるエリート層は恐ろしいほどの多忙さで、 報酬の何倍もの量の仕事が振られる。一方、 新卒雇用ルートから外れた人びとは、 なかなか正社員枠に入り込めない。 バイトや派遣社員からのスタートで、よほどの努力と運、 コネクションがなければ安定した職につけない。

けっして無能でも怠惰でもなく、 たまたま就活でうまく立ち回れなかった若者が、 そんな負のループにハマっているのを何度も見た。 有能かどうかはわからないが、 それなりに真面目にやってきたつもりの私自身もそのケースだった 。

社畜よりは時間に自由の効く派遣がいい」 と自分を納得させてきたが、低賃金、 技術が身ににつかない単純作業、行き届いていない保証制度、 どんなに遠くて高額でも自腹の交通費、 そういったものに打ちのめされた。そして、歳を重ねるほど、 諦めにも自暴自棄にも似た感情に支配されはじめる。

いささか愚痴っぽくなってしまったが、かように、 働く環境について疑問を抱く日々である。 自分の環境はしぶとく向上させていこうとはしている。 友人は少しでも楽な環境へと移行してほしいと願うばかりだ。

 
 

本文より対談がおもしろかった本

本日読んだのはこちらの文庫。
二村ヒトシ著『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』。

先日読んだ同著者の『すべてはモテるためである』が興味深かったため、すぐにネットで注文したのだ。しかし、私の手元にはこの本が二冊ある。一冊はソフトカバー、一冊は上記の文庫。

なんと、タイトルを変えて出していたので、作者名だけ見てうっかりどちらも買ってしまったのだ。ソフトカバー版のタイトルは『恋とセックスで幸せになる秘密』。うーむ、このタイトルで筆者を知らなかったら果たして私がこの本を手に取ることはあっただろうか。単行本化のときに改題して正解だと思う。しかし二冊もあるって、大ファンみたいだ。

とりあえず、私は文庫版を読み出した。結論から言うと、この文庫版に追加された対談が出色のおもしろさだった。

もちろん本文も楽しめた。作者は「心の穴」や「自己受容」といったキーワードを絡めて書き進めていく。 

「心の穴」は誰もが持っているもので、それは必ず親などの自分を育ててくれた人の影響を受けている。愛情を受けた受けないに関わらずである。それは、言い換えれば「思考のクセ」などとも言える。恋愛相手がどんな人であろうと(例えひどいことをされたと自分が後で後悔するような人であろうと、)そういったタイプの人をあなたは求めていたのだろうという解説だ。

「自己受容」は、「私は、このままでいい。無理しなくても生きていける」と、ありのままの自分を認めて受け入れることだという。その反対がナルシシズムで、それは「自分への恋」だと言い換えられるようだ。同じ「自分を好き」というフレーズでくくられそうなこの二つの違いに気付き、「自己受容」することが、恋愛でも生きていくうえでも大切だといったことを説いている。

ここまで読んで、なるほどなあと思った。ただ、この本はそこでは終わらなかった。巻末に、作者二村ヒトシと、臨床心理士信田さよ子の対談が載っている。タイトルは、「どうして女性学はあるのに「男性学」はないんですか?」だ。

信田はこの本について、「心理学や精神分析社会学なんかで難しく言われていることを、「心の穴」とか分かりやすい言葉で表現している」と褒める。しかし、このままななごやかに対談が進むかと思いきや、予想外の展開となる。それは二村がこんなことを言った時だ。「女性の中には、菩薩とか母性じゃないけど「ゆるぎないもの」があるような気がしていて・・・・・・」。怪訝そうな信田に対し、二村は「女性を美化しすぎですかね」と重ねるが、信田はこう返す。「「菩薩」っていい表現に聞こえるけど、実際には「女性には頭脳がない」ってことを言ってるんですよ。あーもうそんなこと言わないで、二村さん。あなたこんな本書いて、ここまで話していて、なぜそんなこと言うかな(笑)。二村さんの中にいる「いい女」というものの「ある種の原型」がそれなのね(略)」容赦ない信田の返答に、二村は「・・・・・・・・・。」となってしまう。

読んでいるこちらがハラハラしてしまった。二人は喧嘩するでもなく、あくまで真摯に話し合っているので、穏やかに対談は終わる。しかし、二村が絶句してしまったところは、「あらら、でも確かにそうだな」という気持ちで読んだ。男女の心について深く洞察し、このような本を書くような人でも、やはり人間である限りはある種のステレオタイプや時代錯誤の考えに縛られている。その本音がポロッと出てきてしまったところに、異性である信田が意見したのだ。

この本は、主に「女性が幸せな恋愛をするためにはどうすればよいか」という視点で書かれている。だからこそ、そもそもの男性から女性に対する願望が、女性から見てご都合主義に思えるものであったなら、この本全体のアドバイスが脆くも崩れてしまう。女性は生まれつき「菩薩」だ、だからなんでも受け入れてくれるに違いないという前提があったとするなら、それは違うと私も思う。人の善悪に男女はない。どちらの性がどんな性質をもっていて、何に秀でているかは、多くは社会的要因から作り上げられるものだと考える。

この対談をおもしろく読んだのは、男性が持ちがちな理想像が見えたからだ。ただし、「だから男性ってダメだ」などとは私は言えない。なぜなら、いくら理性的になろうとしても、私だって「男性ってこういうもの」「女性はこうした方が受け入れられやすいし生きやすい」といった無意識の決め付けを、知らず知らず行っているだろうからだ。人間は個々人で違って当たり前なのに、ついそうしたステレオタイプに当てはめてしまう。そういったものから全く自由でいられることはないと思うが、それらの思い込みにとらわれすぎたくないと再度思ったのだった。

色々と書いたが、だからといって本書が説得力を持たないとは思わない。こういうアドバイスが載った本は特に、盲信せず、否定ばかりもせず、「自分はどう考えるか」ということのヒントにするのが良いのだろう。まずは「心の穴」「自己受容」と自分の関係について、考えを巡らせてみたい。

「モテたい」の奥にある本当の思い

今日は一冊の本を読んだ。二村ヒトシ著『すべてはモテるためである』。

このタイトル。そして表紙には、下着姿で振り返る目の大きなボブヘアのかわいい女の子。いかにもモテ指南書な雰囲気。ただ、なんとなく初めて知ったときから、これはモテること以上の何かを書いているのではないかと思っていた。

私がこの本を知ったのは昨年ごろだったか。社会学者・上野千鶴子がいろんなところで取り上げて褒めていたので興味を持った。いつか読もうリストに入れたままほぼ一年、やっと偶然に思い出し購入した。

作者は二村ヒトシ、アダルトビデオ監督だ。普段このような職業の方と話す機会もないので、どういった思考を持っているのかにも関心があった。

ページの冒頭、太い大文字でページの真ん中にこう書かれている。「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルイからでしょう。」

なかなかショッキングな言葉だ。これを私が十代、二十代に目にしたら、今よりショックを受けていたかもしれない。しかしこの言葉、いいえて妙だとも感じた。キモチワルイとはストレートな表現だが、それはなにも顔が悪いとかスタイルが悪いとか、そういう表面的なことだけを指しているのではないのだろうと悟った。

現に読み始めると、キモチワルくならないためには、相手の気持ちを尊重できているかどうかが大切だというようなことが書いてあった。清潔にする、適度に自信を持つ、相手の身になって気持ちを想像する、こちらのアクションに相手が嫌そうな素振りを見せたら、不快感を与えることなく素直に引き下がる。おおざっぱにいうとこんなことがまとめられてある。

とはいえ、こらだけならどこかで聞いたことのあるような話にも思える。この本では、特に前半、あくまで率直に「モテ」について追求する。「セックス」という単語も繰り返し出てくる。オブラートに包んだりはしない。

ただ、とにかく女とセックスがしたいだけなのかというとそうではないだろうという。恐らくだれもが、「こんなキモチワルイ自分でも受け入れてくれた」という肯定を欲しがっているのだろうと。

この本は何度か改訂出版されたらしく、今回の最新版では、新たな章が加えられていた。タイトルは「モテてみた後で考えたこと。」15年前に筆者がこの本を出したとき、実は彼はモテていなかったという。モテないがゆえに考えて、辿り着いた結論を文章化したということだ。そして人気作となり、15年ぶりに加筆修正を行い再発売となったとのこと。その際に、先述の新たな第5章が加えられた。

前回執筆時、文章化し考えを整理できたことで、作者は以前よりモテるようになったという。結構なことだ。しかし、なぜか「モテているのに、心が苦しい」という状態になったというのだ。一体それはどういうことか?

本の最後には著者と哲学者・國分功一郎との対話が載っている。そのなかで國分は二村に対し、「つまり、恋されるようになったけど、その中で自分は相手を傷つけるようになり、また自分も苦しくなった。そして自分は実際には恋されたいのではなく、愛されたいと思っていたことにきづいた、と。」と問いかける。すると二村は「気づかざるをえなかったんです!(笑)」と返す。

「女性の「こちらに恋してる感情」や「優しさ」につけいって甘えさせてもらおうとするのは「愛されること」ではなく、ずるい手段を使って「支配すること」と同じだ」と二村は言う。また、「女性から肯定されて愛されたければ、いばるのをやめてその女性の前で「すなおになる」しかないんじゃないか」とも。

これは男性と女性を入れ替えても言えることだろう。単純にモテたからといって幸せになれるわけではない。私が考えるに、二人がちょうど同じ温度で心から互いを思いやれたとき、恋を超えた愛に近いものが生まれるのではないか。言うは易し、行うは難しだが、このシンプルでいて難しい結論に、「モテるには!」「セックスするには!」と解説するアダルトビデオ監督から導かれるとは思わかなった。

最後に、上野千鶴子も気に入っていた文中のセリフがこれだ。「“あなたの居場所”というのは、(中略)『あなたが、一人っきりでいても寂しくない場所』ってことです。」モテるモテない以前に大切なことだし、自分の居場所、あるいは確固たる自分の好きなことがわかっていなければ、例え恋愛できてもそれは相手に対する過度の依存となり、本当の幸せは得られないのではないか。

たまにはこういうジャンルの本もいい。サラッと読めても、後日フッと何処かのフレーズを思い出すことがありそうだ。

真夏のゴジラ観賞

今日は『シン・ゴジラ』を鑑賞した。

今年の夏一番の大ヒット映画!という文句が乱れ飛び、観るまでは情報を入れないでおこうと思っていても、感想、考察が嫌でも目と耳に入るここ数日だった。やっと観られてほっとしている。

観終わっての感想は、「これぞ夏休み映画」だった。

「夏休み映画」とは映画宣伝の決まり文句だが、私自身は普段、あまりそういう季節感を意識しない。理由は単に、年中映画を観たいからだろう。夏休みだから、年末だから映画館に行こうといった気分にはならないので、そういう文句を聞いても「あ、そう言えばそうか」と思うだけだ。

しかし、今回はなぜかこの「夏休み映画」という言葉が映画を観終わったころに頭に浮かんできた。誰もがその名を知る怪獣、主役級から一瞬の脇役まで揃っているスターたち、これぞ大画面と大音量で観るべき迫力、そういったものがてんこ盛りの作品だったからだ。いかにも長期休みに満喫する大作といった感があった。映画館で観られてよかった。

内容に関してはあれもこれも言い出したらきりがないし、細かい解説をするほどのゴジラ知識及び庵野秀明監督知識が私にあるわけでもない。したがって、おおざっぱな感想になってしまうがそれもいいだろう。そういう鑑賞者のほうが多いだろうから。

まず私がしびれたのは、レトロ感へのこだわりだ。冒頭、東宝マークが登場するが、現代バージョンの後にすぐ古いバージョンが出てくる。そして話が始まるとさっそく矢継ぎ早に登場人物が出てくるが、各人の肩書の字体が昭和の映画を思い起こさせる。私の知識の範囲では、市川崑映画を連想させた。そして音響も、なるべく(もしくは全編?)モノラルに徹しているようだ。こうした様々な要素が、この作品を初代ゴジラの手触りに近づけたかったのだなと感じさせた。新しい技術があるからといってそれらを総動員するというスタイルではなく、あえて懐かしい味を取り入れたいという製作者の思い入れを感じた。元々「古い」というだけで魅力を感じがちな私は、上映開始早々に上記三要素に気付いた時点でワクワクした。

それでも、懐古趣味だけで終わるわけがないとの予想もあった。これは多くの人が指摘しているだろうが、現代ならではの描写も巧みだった。皆がスマホを持っているのはもちろん、ニコニコ動画ツイッターといった画面をそのまま前面に広げたシーンも多かった。日々そういったメディアに接している我々には「ああ、今こんな事件が起こったらきっとこうなるな」というリアリティを感じさせた。

俳優で一番「あっ」と思ったのは塚本晋也だ。2015年から今年は、映画『野火』の上映、それに伴う全国の映画館を巡る舞台挨拶、また先日発売された単行本『塚本晋也「野火」全記録』の監修などが続いていたはず。どう考えても忙しかっただろうに、いつのまに撮影したんだろう?とはいえ、キャスト情報もなるべく知らずにきた私には嬉しいサプライズだった。役柄は大学の准教授でもある生物学者。ゴジラについての情報解析をするのだが、そのスタイルがなんともアナログなのもよかった。地図に赤鉛筆で沢山書き込む、本を積み上げる。周りがほとんどパソコンで仕事をするなか、その姿勢がむしろかっこよかった。

ここまで作品を褒めてばかりいるが、観ている間の気持ちはそう単純ではいられなかった。どうしたってゴジラに気持ちが寄ってしまうから。もちろん恐ろしい怪獣だし、自分がその場にいたら逃げまどっていただろう。ただし、ゴジラはなぜ生れたのか。何を象徴するのか。多くの人が分析するようなそのようなことを思う以前に、単純に味方をしたくなった。恐らく人間の都合で生まれて、ただ街を歩いているだけなのにこんなに爆撃されるなんて。

世の中の物事は全てグレーだとも言えるが、ゴジラに対してだって敵か味方かなんて簡単に言えない。ゴジラと人間、どちらを応援すればよいのか。いや、そんなことそもそもできない。こうやって娯楽映画として鑑賞し、心の一方ではゴジラの造形に感嘆し状況に同情する。もう一方では「人間も捨てたものじゃないな。頑張れ!」と応援する。そんな状態が一番平和だなあとつくづく思った。事件や事故が実際に起ってしまっては楽しいどころではない。ゴジラは核、戦争、公害、天災、人間の業、あらゆるものを象徴しているのだろうが、そういったものをエンターテイメントとして、同時にあくまで警告として楽しめる世界を残したい、そんなことを上映中は感じていた。

最後に、ツイッターで話題になっていたコメントについて触れておこう。「シン・ゴジラには女性が好きそうな恋愛要素や家族愛がないのがいい。ヒットしてほしい」といった類の意見をちらほら見かけた。なるほど、手堅いヒット作を出したくて、そういった要素を安易に取り入れる手法があることは否定しないし、あまり嬉しくない傾向かもしれない。しかし、今日私は女一人で観に行って満足した。隣も女性一人、後ろも女の子二人組だった。けっこういますよ、女性ファン、とだけ言っておきたい。(声高に反論するつもりはない。男女問わず色んな趣味の人がいるし、よくある一意見だなという感じだ。書いた人もそこまで女性差別の意識はなかったのではないかな。いや、意識がなく決め付けるのが一番いけないのかな。「~とだけ言っておきたい」と書いたわりには、かなり書いてしまった)

奇しくも今日は2016年8月9日、長崎への原爆投下から71年目という日だった。今回の作品のメインテーマが何にしろ、核というキーワードからは逃れられない現代の世界。そのことを、今日のゴジラは思い出させてくれた。今も頭から伊福部昭の曲が離れない。話は尽きないが、今日のところはこの辺りで筆をおこう。