巧みな作品であるからこその怖さ

木下惠介『陸軍』(1944)を観た。

観るのは2回目。数年前に観たときの記憶や、その後本などで読んだ解説文等から、「ああ、そうだ。こんな話だったな」と思いながらの鑑賞だった。

この作品は、戦中に作られた戦意高揚映画である。しかし、最後に出征する息子をいてもたってもいられずに小走りで見送るその母親のシーンが軍部に気に入られなかったというエピソードは有名だ。まるで、裏に隠れた真のテーマとして「反戦」を掲げているようにもとれる展開だからだ。

今回、そのシーンを自分で計ってみた。母親演じる田中絹代が、行進曲を耳にしてつい息子を探しにかけ出し、そして息子を見つけ行進に並走し、最後は涙ながらに手を合わせるアップで終わるこのシークエンスはゆうに8分を超えていた。行進曲と歌声、そして見送る人々の歓声の他に、音声として存在するのは、田中絹代が息子を見つけたときにつぶやく「あっ、慎太郎」の一言のみ。慎太郎に追いついて顔を合わせるも、二人は声を掛け合うこともない。ただ目を合わせて、頷いたり、軽く微笑んだりするだけだ。しかし多くの観客は、田中絹代の複雑な表情から、「かわいい息子を死に追いやりたくない」という本能的な感情を汲み取ったことだろう。実際に私がそうだった。

さて、木下惠介は戦後には民主主義をうたう名作を残している。その代表格が『二十四の瞳』だ。私も鑑賞して、これでもかというくらいに涙した。これははっきりと反戦の思想を込めた作品だ。反戦のみならず、反貧困など、弱い者たちの目線で世の不条理を描いたものである。他にも多くのそういった作品があるため、私は木下惠介が、反戦の思想を持った監督だったろうと考える。

この『陸軍』は、戦時中であるという事情により、有無を言わさず好戦的な内容で作られている。世の中全体がそうした流れであり、そうでなければとても映画など作れず、それどころか処罰された時代だったからだ。ただし、軍部が製作時にこの作品のラストを好まなかったことからもわかるように、あたかもこれは好戦的とみせかけながら、反戦厭戦の思想を巧みに織り込んだ映画だと言われる。それは多くの映画評論家が指摘するところであり、前述のように私自身もそう感じた。

しかし今回、そのような解釈をじっくり考えながらこの映画を再見していると、今までには抱いたことのなかった感想も浮かんできた。それは、平和主義の監督が巧みに撮った一見好戦的な映画が持つ、ある意味での危険性である。言い換えれば、腕があるからこそ、見る側も深い見識を備えなければ、むしろリアリティをもってこの映画に「感動」し、もしかしたら監督の本意ではないのに、「戦争賛成」という気分になってしまうのでは、という懸念である。

あらかじめ言っておくが、私はこの解釈によって、例えば木下惠介を戦犯者として貶めようというつもりは全くない。ただ、この私が、数十本の戦中、戦後の映画を観た上で感じた新たな感想を、冷静にまとめようとしているだけである。

この作品は、改めて見直すと、冒頭からずっと、いかに「命を投げ出してでも国に、そして天皇に忠義を果たすことが尊いか」ということが強調されている。戦意高揚映画なのだから当然といえばそうなのだが、敗戦後には戦後民主主義を強く押し出した木下惠介の作品だと思いながら見ると、その主張の強さにどうしてもたじろいでしまう。ある一家が三代に渡り、天子様に忠義を尽くすことを人生の目的として生きているさまが描かれている。少し不器用で真面目な家族たちゆえ、そのひたむきさはより強まり、なんの疑いもなく、天皇のために生きることに精を出す。

ただし、だからといってその頃に実際に生きていた人びとが、みな本心で国家のために命を投げ出したいと思っていたのかというと、必ずしもそうではないだろうと私は思う。誰だって命は惜しいし、出来れば平和に楽しく暮らせるほうがいいだろう。ましてや家族思いの真面目な人なら、かわいい我が子をむざむざと死なせるという行為に疑問を抱いたことがないというのはフィクションだろう。ただ、ここで木下惠介の敏腕さが、ある意味で仇となってしまう。つまり、例としてはこうだ。筆者は完全に反戦思想を持っている。平和を好むし、どんな理由をつけても戦争とは非人間的な殺し合いでしかないと思う。そして木下惠介という監督は、戦後の数々の映画を見てもわかるとおり、平和を愛する作家だと思う。その前提を持ってこの映画を筆者がいま観たときに、あまりに上手に家族愛、隣人愛、そしてユーモアやペーソスといった要素まで含んで作られた作品であるがゆえ、ふと「自分のエゴを捨て、国のために喜んで生きようとする人びと」や、「戦友という存在の、損得を超えた結びつき」の「美しさ」のようなものを感じそうになった気がしたからだ。いや、実際に確かに感じた。ついつい短気から喧嘩をする男同士が、「戦争」という命題を目の前にしたときに、互いに尊敬し合ったり、助け合ったりする。そのほっこりとした瞬間に、人間同士の美しい関係をみた気になるのだ。そして、戦争という事象に好意的になり、時には酔いしれる人びとの甘美な気持ちを分かった気がしたのだ。

この映画がもし、作風は同じでも、もっとずさんな脚本で、うまくない演出であったなら。あるいは、技術はあっても、完全に戦争を賛美し、子供たちが戦死しても大喜びするような登場人物しかいないようなものだったなら。いずれも、ただ嘘くさく映ったのだと思う。しかし、きちんと普遍的な人間愛や、子を思う母の気持ちなどを置き去りにせず描いているからこそ、どんどんこの作品にリアリティが増し、結果として戦意高揚調で描いている場面にまで自然と同調しそうになっている自分に気づくのである。さすがに、生まれたときから民主主義の教育を受けた著者なので、この気持ちのトリックには同時に気づけている。親子愛や同士愛といったものは別に戦争があるから存在するのではない。どんな状況においてもありうるものだ。ただ、戦争という舞台設定があまりに強烈であるために、そういった美談めいたものが、うっかりするとあたかも「戦争があるからこそ起きうる素晴らしい現象」であるかのごとく錯覚するのだ。

戦争とは、どう理由付けても、最終目標は人を殺すことであり、敵味方関係なく弱い存在から順に不幸に陥る事件である。だから、いくら空疎に聞こえようが、「平和」が大切で、「戦争」を避けるべきものだと心にすることは何よりも大切なことだ。そういった、基本的過ぎてうっかり忘れそうになる事実を、『陸軍』という巧みに撮られた作品を見たときに、なにか忘れそうになった自分を恐ろしくも感じた。戦時中、真っ直ぐな人ほど、軍部の言うことに心から賛成し、信じて行動した者も少なくなかっただろう。もし著者がその時代に生き、その頃の教育を受けていたら、なにも迷わずに戦争に協力していたのかもしれない。そんな可能性を、いま『陸軍』を観て感じたのだった。

木下惠介にとどまらず、黒澤明今井正も、戦意高揚映画とみせかけて、実は厭戦反戦の気持ちも込めたと思われるような作品を撮っている。これまでは、そういった、時局に逆らえないながらもなんとか自身の平和主義を投影しようとした作家たちを讃える気持ちが筆者には大きかった。事実、今でもその気持ちは変わらない。ただ、今回の映画鑑賞を通して、うまくバランスをとって現実味と共に作られている映画だからこそ、より多くの人びとに「戦争の良さ」を思わせてしまうような結果ももたらしかねない可能性を、ふと心に抱いたのだった。

芸術というものは、そもそもが矛盾をはらむものである。残酷なものが美しく映ったり、創造性を追い求めた結果、殺人という行為に結びつく産物を作り出してしまうこともある。しかし人は生きていく上で芸術を求めるし、作風がどうあろうと、未来から過去を知る貴重な手がかりにもなる存在だ。今回の映画鑑賞も、ぼんやり観れば「なるほどね。では次の作品を観るとしよう」で終わっていたのだろう。だが、それが作られた時代、作家の性質、現代から観ている自分という存在について様々に思いを馳せながら観たことで、芸術が人に与えうる影響の大きさを思い知ることになった。他の皆はどのようにこの映画を観たのだろう。今後調べてみたい。

先生。私、苦労しました

最近、木下惠介作品を可能な限り観ている。その感想を書きたい。

できるだけ古い順に観ようと思いつつ、近所のツタヤにあるのは五、六本。それでもありがたいわけなのだが。そして今夜観たのが、そう、押しも押されぬ大ヒット作であった『二十四の瞳』である。

私はこの作品を十年前くらいに観ている。そして泣いたことも覚えている。よって、「今回も泣くだろうな、こんなシーンでこんなストーリーやもんな、まあそこは覚悟して観るぞ!」と鼻息荒くスタートさせたのだが。そんな覚悟は全然十分ではなかった。開始1分でホロリ。。

「なんで1分で!大石先生すらまだ出てない。子供たちが、大石先生の前任者である「おなご先生」に話しかけてるだけじゃないか。」と自分に言いたくなった。しかし、子役の力はすごい。特に素人をうまく使った表現の映画は、最強の涙製造機である。反対に、あまりにませた子役だと、その子に罪はないが、周りの大人の魂胆が透けるようで、しらけてしまうこともある。

とにかく、昭和三年の小豆島に住む、小さな子供たちが、棒読みに近いセリフを言って、笑ったり叫んだり歌ったりしているだけで、もう胸がギュッと。

いやいや、感傷的になりすぎず、学術的アプローチをもってこの作品に挑もうと思うのだが、そんなこちらの魂胆を粉々に破壊する威力である。

やっと大石先生の登場。「おはようございます!」と、颯爽と自転車で駆け抜ける。そして洋服姿。もうこれだけで村はてんやわんやである。「大変だ!洋服着たおなご先生が自転車に乗ってきたで!大丈夫かいな」てな具合に、店先のおばちゃんが近所のおばちゃんに走って告げに行く。そんな走らんでも。でもあの頃の田舎では、洋服、自転車さえも珍しく、しかも女性がそれらを持っていること自体が大事件だったんだな。

驚くだけならいいのだけれど、どうにも妬みが絡まって、ちょっとした動作や発言が、やたらネガティブテイストで一気に噂として広まるこの田舎の閉塞的な空気。この作品は、先生と生徒の麗しき愛の交流物語だというイメージが強いが、木下は決して皆を善人に描いているわけではない。冒頭のおばさんたちの井戸端会議を見てもそれは分かる。「あなたは確か庄屋の子ね」と、大石先生が点呼時にある少女に声をかけたことがすぐさま親たちにも伝わり、それがなぜが「『庄屋の子だから偉いわね』と言ったらしいわよ。庄屋さん、何か持っていってさっそくおべっかでも使ったのかしら!」といった感じの(感じ、と曖昧なのは記憶だけで書いているからである。この記事はこぞって記憶に頼っていることを注記しておく)、恐ろしく歪曲された悪口になっている。ゾゾ〜である。

ただし、そんなひどい暴言をナチュラルに吐く人々も、決して根っからの悪人でないことも画面から伝わってくる。いわゆる普通の田舎の元気なおばちゃんなのだ。貧しい農村で毎日暮らしていれば、新しい異物が入ってきたら、驚き、そして暇潰しもあいまって格好の噂の標的にするのだろう。今のように全国各地、多様な情報が行き届いているわけもなく、その社会の見方も固定観念に縛られているだろう。それがわかってもなお、大石先生が誤解や嫉妬でひどい陰口や、時には直接の罵倒を受けるのを見ると、私は腹が立った。階級格差が大きな時代には、両者の間のいさかいは避けられなかったのではあろう。その様子もうまく捉えた脚本だ。

大石先生の話に戻るが、彼女は小柄だから「小石先生」と呼ばれ、どんどん生徒たちに慕われていく。大石先生が、家で母親に話す。「あの子達の二十四の瞳を見たとき、私、決してみんなの瞳を濁らせてはいけないと思ったの」と。「うん、わかるよ高峰秀子。私もそう思う!」と勝手に私の中でも感情が盛り上がり、また涙がこぼれる。特に事件は起こってないのに。だってみんなの目がキラキラしていて、「ああ、私がとっくになくしたキラめきだ。」とクラッとするくらい。そして私の脳裏には、今後の悲しいストーリーがボンヤリと残っているので、「こんなにキラキラした罪のない瞳をもつ子供たちも、もうすぐ。。」と思うだけでホロリなのだ。

小豆島の方言、リマスターとはいえ完全ではない音声、そしてなんと言っても十二人の生徒たちが次々にしゃべるから、誰かなんと言っているのかわからないところが多い。想像はつくが、職業病というか、「このシーンは難儀だぞ。誰が何を言ってるのか。てか男の子みんな坊主やからよけい見分けがつかん!どうにかして。もっと個性を大切にしてくれ」と時代背景を無視した勝手な不満を抱きながら、それでも感動して、生徒たちの先生お見舞シーンを見た。(この不満を本当の不満にできるほど、日本語字幕ができるようになればいいなあ)。自分たちの些細ないたずらで落とし穴に先生を落とし、足を怪我させて、その罪悪感と懐かしさでお見舞いに行く有名シーンである。しかし先生の家は思ったより遠くて、エンエンと泣き出してしまう生徒たちの姿はなんとも愛おしい。そして偶然車で通りかかった先生に会えて、駆け寄りワンワン全員でなく。脚本の狙い通りの泣き所だが、悔しいがこちらも泣く以外選択肢なし。そろそろ翌日のまぶたの腫れを気にしないといけないステージである。

この作品ではとにかく登場人物の泣くシーンが多い。よく指摘されることだから、それも分かってみていたつもりだけれど、予想の倍は泣いていた。でもなぜかくどいとか、下手な演出だなとか、そんな気にさせない。作品全体のトーンが控えめだからだろうか。演技も大袈裟でなく、実際泣くとしたらこんな感じかな、という抑制がきいている。大石先生は、貧しさや時勢から苦労にぶつかる生徒たちに寄り添うとき、ついつい涙を流して「先生、あなたの幸せを祈ってる。情けないけどこれくらいのことしか言えん。だけど泣きたいときはいつでも先生のところに来ていいんよ。いつでも待っとるよ」といったセリフを言う。もちろん、具体的に「できれば奉公をやめさせてもらって進級したら?先生、親御さんに言ってあげるわよ」とか、できるだけ生徒の味方もする。だけど、それを声高に叫ぶわけでもなく、反戦運動をするわけでもない。それでも、「あなたは悪くないんよ。いつでもまた来てね」という大石先生の存在はいかに生徒らの心の支えになっただろう。

そんな大石先生のあり方に、不満を抱く観客もいるかもしれない。「もっと具体的に行動を起こせばいいのに。闘えばいいのに」と。でも、映画を見直して気づいたのだが、大石先生は意外に頑固で一本気である。彼女は戦争には反対だ。しかしそれをこのご時世で口に出せないことは、自覚しているつもりである。戦争が迫り、赤狩りが始まった頃、校長先生らはピリピリ状態。軍人志望の生徒らに「兵隊さんよりは米屋さんのほうが、先生好きだな」と、控えめに言った大石先生に大慌てで説教をする。「『見ざる言わざる聞かざるが大切だ。教師の役目は、お国に奉公する生徒を作り上げることだけだ』」と。大石先生は徹底的に反抗するわけでもないが、「そうでしょうか。。?」「何がいけないのでしょうか?」と素直な感想を述べ続ける。もっと狡猾な人間なら、うまく空気を読むところだろう。「あんたはアカやと評判ですよ!」と叱られても、納得できない顔を隠さない。時局によって上手に言動を変える人も多かった中、彼女はその天真爛漫さもあいまって、案外強い女性だったと私には感じられた。そして軍事色の強い教育しか許されない方針がどうしても受け入れられず、彼女は自分が小学校一年生で受け持った生徒が六年生で卒業するのを契機に、教師を辞める。

その後は、戦争をはさみ、どんどん教え子が亡くなる。親も旦那も、そして一人娘まで事故で亡くす。家族の死のシーンでは哀しみのトーンが静かめだったが、唯一、一人娘の亡くなるシーンではついに気絶してしまう。悲しみと疲労が頂点に達したのだろう。ここでも、短時間ですぐ次のシーンへゆくので、抑制のバランスは保たれている。なんと簡単に人々が死んでいくことか。心を麻痺させていく、あるいは人前では我慢し、隠れて号泣する、そんな方法しか取れない時代だったのではないか。

戦後、四十代になった大石先生は、また小豆島の岬の分校に通勤できることになる。そこでの点呼シーンはまた珠玉である。何人かの生徒は、かつて受け持ったあの子供たちの兄弟や子供だった。名前もだが、顔がそっくりだからすぐにわかる。貧乏ゆえ中学進学を諦め、ついにら泣きながら奉公に出された少女マッチャンの子供を見たときの感涙。もちろん私も、布団の先で目をこすりまくり(汚い)

マッチャンとと同じくらいの苦労をした少女コトエの言葉も忘れられない。「先生。私、苦労しました」。彼女も貧困で中学生になれず、家の飯炊きとなっていたが、苦労がたたって肺病になる。家族にも見放され、あばら家で一日中布団に横たわり死を待つ彼女。ここは木下お得意の愚痴シーンともとれるが、この一言は単なる愚痴と言えるだろうか。ポツリとつぶやくその言葉に、大石先生またも涙。だけど「そうね。苦労したわね。。。でも、他の同級生も、みんな苦労しているわ。あなただけがしんどいなんて思わないでね。また顔を見に来るからね。」としか言えない。このセリフは、この子には酷でないかとも思ったが、実際私が先生の立場だったら、やはり同じことくらいしか言えないかもしれない。本当に儚い。世の酷さを感じずにおれないシーンだ。また、この子は教室一の秀才だった。だから、他の級友がそれぞれの進学先で優秀な成績を収めているのを眺めているのが、さらに苦しさを倍増させているのだろう。その気持ちもとてもよく分かる。胸が締め付けられる。

書いているときりがないが、最後の先生の分校への歓迎会のシーン。先生が旅館に着くと、そこには、今はもう高くて買えないと言っていた自転車が!「先生へのお祝いにって、みんなで用意したんです」という生徒たち。またの滝の涙である。布団で拭きながら見る(汚い)

かように、涙涙の物語なのは間違いないが、私には決してただのメロドラマとは思えなかった。静かだからそこ反戦の意図がズシンと響いた。戦死したかわいい生徒たちは、では、戦地ではなにも罪なことはしていないのか?虐殺を繰り返した者はいなかったのか?そのあたりは確かに語れないので、その点でも「日本はかわいそうという過剰な美化作品」と取られる可能性もあるだろう。しかし、表面的にだけでなく、戦争という多面的な残酷さに気づこうとする人には、だからといって小豆島のかつての少年少女たちがひたすら被害者だなどとは思わないと信じたい。大石先生は、そして観客のほとんどは、反戦や反格差の思いを強くさせられるのだと信じたい。

8月15日、立派な軍国少年に育った大石先生の息子は、「母さんは日本が戦争に負けたのになんで落ち着いてるんや?悲しくないの?泣かないのか」と憤る。大石先生はいたって冷静にご飯をよそいながら、「はいはい、私もラジオを聴きましたよ。でもこれからこそ、あなたたちが自由に学べるいい時代じゃありませんか。それにいっぱい泣きもしましたよ。死んでいった人びとがかわいそうでかわいそうで」と淡々と話す。戦争は間違っていた、という直接的な言葉は慎みながらも、彼女の反戦思想は一貫している。これらの何気ない会話から、観ている者は、戦争の愚かさと恐ろしさを想像するのだ。

決して地味に思えなかったこの作品。昔の邦画、それも大ヒット作だと、「いまさら観てもな」と敬遠されがちかもしれないが、改めて今の人にも観てもらえたらと思わずにはいられない作品だった。


追記: 翌朝の鏡を見て「ギャッ」となった。のび太が眼鏡を外したときの「3」の目になっていた。

『橋のない川 第一部』

今井正監督の作品を初めて観た。「戦後ヒューマニズムといえばこの人」という形容詞で語られる氏だが、未見であったのだ。近所の小さなツタヤにわずかに置いてあった数作から、何となく『橋のない川』第一部と第二部を借りた。

結論から言えば、大変に面白かった。面白いとは、楽しく笑える意味の面白いではない。内容は正反対の深刻さである。興味深いと言えばより正しく聞こえるだろうか。

これは、部落での差別問題を扱った作品だ。それすら知らないで観たものだから、そこに繰り広げられる差別の連続に胸が傷んだ。第一部は特にそうであった。なぜなら、子どもたちの生活が物語の中心だからだ。子どもらは、差別のなんたるかをまだ理解していない。理解していないが、立派に部落の村を差別する。特に「エッタは汚い」という無根拠な理由で、部落である小森村の生徒をいじめる。

登場する先生もまた、わかりやすく差別主義者、そして被差別部落の人びとに同情する者とにわかれる。「部落の方たちは、社会構造によってひどい仕打ちをうけているのでは」と、差別に理解のある先生が言う。しかし一方の先生は呆れたような冷笑しかしない。「あいつら(部族の人びと)自身に原因があるんですよ」と。

子どもらしいかわいい初恋、修学旅行、そんな時にも差別の壁は立ち塞がる。被差別層でない女の子からそっと手を握られ嬉しく思う、部落民の主人公。しかしのちに、それは女の子が、「部落の人たちの手は夜になると白蛇のように冷たくなる」という言説を確かめたかったからそうした、ということが明らかになる。少年は彼女の手のぬくもりを何度も確かめたであろうその自分の手を、「このやろう このやろう」と言いながら、ひたすら木に打ちつける。

そんなエピソードは枚挙に暇がない。その理不尽さに唖然としながらも、この世には確かにそのような階級社会による悲劇が繰り返されてきたのだろうと思わされる。そして、貧困に陥った女性の何割かは身を売られる。この構造は現代でも珍しくない。不況続きで先が真っ暗なこの時代、最低賃金ワーキングプアになるよりはと、徐々に風俗に染まっていく女性が多いのも理解できる。本当に望んでそうするなら問題ないが、やむにやまれずだったとしたら、こんなに辛いことはない。そんな現代とのつながりも思い起こした。

おばあさん役の方の演技が素晴らしかった。どこからどう見ても、そこにいるそのおばあさんにしか見えない。実在感が半端ではないのだ。方言まるだしで、シワシワの顔をしながら、草鞋づくりに励む彼女。孫が、差別を理由に叱られたと聞くと、学校の職員室に突撃する。孫は、部落民だとからかわれて、友人と喧嘩になったのだ。しかし彼は、決してその経緯を先生たちに言わない。だからずっとバケツを持って立たされていたのだ。おばあさんはすぐに何が起こったのかを見抜く。そして校長らに言う。「あの子が理由をしゃべらんのは、自分がエッタやから差別されたいうことを口にしたくねえからです。先生、こんなことが許されてええんでしょうか」と、このようなことを泣きながら述べる(台詞は記憶によって書いたので、完全に正しいわけではない)。その迫力たるや凄まじく、彼女が長年抱いてきた悔しさが爆発しているような熱演である。

部落問題についての知識が自分にあまりにないことに気付かされた作品だった。これを機会に原作を読み、理解を深めたい。時代がたったらなくなるというような簡単な問題ではないのだろう。人間はいつの時代にも階層社会を作り、それぞれが、自分より下の身分を虐げることで安心してきた。そしてその不満が下に行くほど、本来向かうはずのトップには怒りが向かず、すぐ上の階層と闘争するという、トップには都合の良い社会構造が珍しくなかった。その不合理さは、現代でもなくなってはいないのだろう。少しでも知識を得たいので、勉強をしてみようと思う。そして今井正という監督作を、今後も続けて鑑賞していきたい。

 

 

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』感想

長らく「いつか観よう」リストに入っていた『ウルフ・オブ・ウォールストリート』をやっと鑑賞した。なるほど、これは快作である。とにかくディカプリオが、全身全霊でとんでもない株屋の役を演じている。イカサマまがいの株取引で、あれよあれよという間に億万長者になってゆく主人公。そしてドラッグが大好き。ストリッパーがなだれ込むオフィス、私は見たことない。パーティーの余興として、百万ドルと引き換えに、みんなの前でバリカンで丸坊主にされる女性の姿も。まばらな坊主頭で、嬉しそうに金を掴む姿が何とも言えない。

出てくる人の8割が、どこかぶっとんでいる。クスリのせいもあるだろうし、湯水のごとく湧いてくる大金によって、常識がなくなっていく。持ち前の上昇志向で身につけた煽り文句を武器に、ディカプリオは客にも部下にも巧みな文句を叫び、煽る。その言葉は狂乱的な雰囲気を作り出し、客は大金を叩いて得体の知れない株を買う。数日までうだつのあがらない人生を送っていた部下たちは、興奮し、取り憑かれたように主人公の真似をして株取引を成立させていく。まるで怪しいセミナーのようだ。そして実際儲かるのだから、皆が正常さを失っていくのも仕方ないだろう。

文字で読めば、「なにそのやな感じの人たちのバカみたいな話」で終わりそうなのだが、スコセッシはうまい。半狂乱の日常を、説教臭くなくポップにしあげている。この明るさが見ていて清々しい。あと、時代設定が1970年代後半頃からなので、ファッションが古い。その、今から見たらダサく感じるその風貌も、この嫌な感じの話を見やすくしている一因だと考える。

株取引の詳細は知らないし、映画内での説明も細かいところまでは理解できなかった。しかし、これだけはわかった。素人が株に夢を託すと痛い目にあう。そんな資金もないのだが、私は株はやめておこう、と思った。

良心の呵責もなく稼ぎまくっても、きっと心は侘びしかったのでは。

ウォール街でばりばり働いて今でも稼ぎまくっている人びとは、これを観てどう思うだろうか。皮肉な笑みを浮かべながらも、「こいつはこいつ、俺は俺」と、また翌日も株取引に専念するのだろうか。富の集中が緩和されていくのは、遠い日であってほしくないのだが。ゲラゲラ笑いながらも、真面目にそんなことを考えさせられる作品だった。

 

 

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

楽しみにしていたこの映画。期待通りの名作だった。

真面目に生きてきたつもりなのに、いつの間にか貧困におちいる登場人物たち。これは、今まさに世界各地で起きている現象だ。また、もし現在は恵まれた層にいたとしても、その地位が今後長く続くという保証は不確かな時代。この映画を観て他人ごとと捉える人は少数派だろうし、その人は感受性が鈍っていると考えたほうがよいのではないか。

少々(いや、かなり?)頑固だけど、根はいいおじいさん。彼は家族と離れ孤独だが、赤の他人と思っていた人びととの交流から楽しみや希望を見出す。この映画のストーリーは、今年観たある映画に似ていた。スウェーデン映画の『幸せなひとりぼっち』だ。どちらも地味ではある。大スペクタクルは出てこない。しかし、日常の厳しさと、コミカルさをうまくかけ合わせ、日々を生きる一般の人びとを真摯に描く。こういった静かだが上質な映画がそこそこヒットする世の中は、捨てたものじゃないなと思う。

そして、私はこの映画を観ながら、もう一本のある映画を思い出していた。『未来を花束にして』だ。イギリスで実際にあった、女性参政権獲得運動を描いた物語である。それを思い出したのは、ラストシーンで、ダニエルの持っていた自筆の手紙が話題になった時だった。ダニエルは彼自身の境遇を書き留め、世の中の不条理を訴えようとしていた。それと同じように、『未来を花束にして』の主人公は、彼女の生きてきた、極貧の洗濯女としての劣悪な人生を世の中に訴えかける。貧困層の彼や彼女が、ある偶然から、自らの体験を通して感じた世の歪みを問いかける言葉には、心を打たれないわけにはいかなかった。

本作はストーリーもさることながら、撮影手法も見事だった。余計な演出がない。若くして苦労するシングルマザー、ケイティが、お風呂場を掃除している時に、ふとタイルが落ちる。仕事もなく、お腹も空き、明日も見えない状態。その絶望感が、その瞬間にどっと押し寄せる。彼女は階段に座り、そっと涙を流すだけなのだが、それだけで大きな苦悩がこちらまで伝わる。派手な言動がなくても、いや、ないからこそ伝わるものも大きい。

ダニエルの演出にしてもそうだ。本作でおそらく最も盛り上がるのは、彼が役所の壁にある落書きをする場面だ。一市民が、長く続く不条理に耐えかねて起こす犯行が、スプレーでの落書き。殺人が横行するアクション映画に比べれば比較にならないほど地味だが、実際の我われの日常生活とはそういったものである。壁への落書きだって、かなりの勇気を伴うものだろう。ダニエルのその行動は、通りすがりのホームレスや、近所の若者の称賛を浴びる。ささやかながら、これは彼の精一杯の反抗であり、挑戦だったのだ。

最後に、この作品は、それを鑑賞した瞬間から、社会運動に参加できる仕組みになっている。それは以下のようなキャンペーンを行っているからだ。

「映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、本映画を通じて得られる収益を、
貧困に苦しむ人々を支援する団体に、有料入場者1名につき50円寄付いたします。」(公式ホームページより)

さすがはケン・ローチ監督。映画は楽しめる、寄付はできる。とても良い気分になって劇場を後にした。もちろん、本作の内容が架空の出来事と思えるほど、不公平のない平和な現実であった方が本当はよい。でも、そうでないならば、まずはこの映画を観て、エンターテイメント作品として楽しみつつ、社会に潜む諸問題について考えてみるのも良いのではないか。

水風呂体験記

先日、スーパー銭湯へ行った。サウナと水風呂のサイクルが気持ちいいという噂を聞いたからだ。

普段ジムにもいかず、歩いて行ける近所にスーパー銭湯があるわけでもない私なので、サウナというものにはすっかりご無沙汰になっていた。でも調べてみたら、いつも歩いている街中にもけっこうあるものだ。大きなお風呂にもたまには浸かりたいと思っていたので、さっそく訪れた。

しかし、どこでも初めての場所というのはまごつくもの。フロントですでに、「どこで靴を脱ぐのか」ということから悩んでしまった。「初めてなんです」とすぐに伝えたら、丁寧ににこやかに接客してくれた。

料金を払って、隣のドアを開けると、すぐ前がロッカールームだった。多少キョロキョロしながら部屋に入る。大昔に通っていたジムの記憶と混ざり、どこからが服を全部脱いでいいゾーンなのか、あるいはどこからは服を着ていないとおかしい場所なのか、それすらもおぼつかない。でも、少し先の扉を見ると、そこがもうお風呂らしい。ということは、ここですっかり裸になっていいのだな。と思うがいなや、さっさと素っ裸になってお風呂に向った。銭湯慣れしている日本人なので、いったん脱いでしまったらなんてことはない。スタスタとお風呂ルームに入る。

入ると、いくつかの湯船に遭遇した。目の前の湯船にある液体を、そっと体にかけてみる。お、水だ!水風呂だ。いきなり入るなんて無理なので、いそいそと隣の普通の湯に移動し、かけ湯をしてから浸かる。

ジェットバスだのなんだの、数分ごとにクルクルと周って楽しんでから、ついにサウナに入ることにした。サウナは正直言って、得意ではない。昔入った何回かは、「気持ちいい」に行き着く前に「暑い、苦しい、もうダメ」の気持ちがまさり、好んで行く方ではなかった。だから今回もそんなに期待せずに入った。でも、なぜだろう。今回は暑すぎる気がしない。温度が昔のものより低かったのか? システムが新しいのか? 理由はわからない。でも、とにかくすんなりとサウナ自体を楽しめた。

何分かは計っていなかったが、「そろそろ出ようかな」という気分になった。そう、ついに水風呂タイムとなったのだ。いつぶりだろう、水風呂。水に浸かる。その行為に、最初は驚いたものだ。「夏の海でも、最初は凍えそうなのに!」と。でもサウナの後なのだ。きっと平気に違いない。証拠に、目の前にいるベテラン風の女性は躊躇なく水風呂に入ったではないか。私もそれに続こう。

そしてかけ湯(水?)をする。やっぱり冷たい。。でも我慢して脚に、腕にとかける。そろそろ浴槽に入ろうかな。片方の足を恐るおそる入れた。うーん、冷たい。でもここが勝負だ。私はまるでクラウチングスタートを初めてやってみた人みたいな恰好で、おまけにどうやってもお腹までしか浸かれず、フルフルと震えていた。

「今回はこの辺にしておこう。心臓にもしものことがあってはいけない」私はそう心で言葉にしてから、またサウナ室へ入った。今度も気持ちいい。ベテランさん達が座っていた、入ってすぐのところは避けて、なんとなく遠慮がちに奥の方に座る。さっきよりも快適な気がする。ぼーっとしながら、長めに座っていた。

今度こそ肩まで水風呂に浸かろう。そう決意して、水風呂に向かう。かけ水をしてから、そっと足を入れる。またもベテランさんさちが、なんの躊躇もなくスピーディに全身を浸からせた。「私もできるはず」そう信じて、平気な顔を装い体を沈めていく。しかし、どうしてもお腹の少し上で止まってしまう。「私はあえてこのあたりまでで止めているの。これが好みなの」と、誰にも気にされていないのに、心で言い訳をする。

またサウナ室へ戻ることにした。座っていると、スタッフの方が入ってきた。何やら、ハーブの香りをする物体を持ち込み、さらにそれを部屋に充満させるため、タオルを振ってくれるらしい。確かにハーブのよい香りがしてきた。そしてそのタオルの振り方が、まるでブルース・リーのヌンチャクのような扱いであった。なんだかかっこいい。おっちょこちょいな私がやったら、手からすべって、お客様の顔にバシンとぶつけてしまうのではないか。そんなことを考えながら、華麗なその手つきを眺めていた。おまけに、最後にはサウナ室にいる一人一人に、三度ずつ、船の帆みたいな布で風を送ってくれた。バサッ、バサッ、バサッ。きれのあるその振り方に、またも見とれ、そして風も心地よく受け止めた。

さあ、今度こそ。三度目の正直である。サウナ室を出て、水風呂に向った。いったん躊躇するから、なんだか凍えた気分になってしまうのだ。きっと体の準備はできているに違いない。今回は、ゆっくり、でも止まることなく水に体を沈めていった。お腹までくると「あっ、どうしよう」となったが、でも我慢。きっとすごい顔をしていたかと思うが、ついに肩まで浸かれた。「ふあっ」という、間抜けな声が出た。でもベテランさんたちは聞えなかったフリをしてくれた。いや、そもそも私の行動など気になっていなかったのが本当だろう。

水風呂は、最初は寒い。どんなにサウナに入った後でも。しかし数秒後、不思議な感覚に襲われる。むしろ温かく感じてくるのだ。まさに、海に凍えながら浸かって、しだいに浜辺にいるときより、海の中の方が温かく感じてくるときに似ている。あれの凝縮バージョンとでも言おうか。私の毛穴が今、開いたり閉じたりしている! という妄想が駆け巡る。これはきっと老廃物を排出しているはずだ。血のめぐりもよくなっているはずだ。科学的なことは分からないが、気分としてはそうなる。汗をたくさんかいて、今度は急激に冷やす。こんなに単純なことが、こんなに気持ちいいなんて。やっと全身浸かれた喜びもあいまって、ニヤニヤとしながら、でも平静を装ってそのままじっとしていた。

サウナ→水風呂の流れは、全部で20分近くの出来事である。たったこれだけの時間で、大きな冒険ができた。「わざわざ二千円ちかくも払って、お風呂もなあ」と、今まで関心のなかった私だが、これからは何かのご褒美として、時々浸かりに来ようかな、と思った。

『王様のためのホログラム』

久しぶりに映画の感想を書こうと思う。

 

『王様のためのホログラム』。この映画を知っている人はどれほどいるだろう。

 

『ラ・ラ・ランド』旋風吹き荒れる中、小さなスクリーンでひっそりと公開しているように見えるこの映画。私も『ラ・ラ・ランド』をもう一度観ようかな、と時間ギリギリまで迷った末に観たのが正直なことろである。ごめんよ、トム・ハンクス

 

一言で言えば、少し退屈、でも心地よい作品だった。退屈の理由は、脚本に原因があると感じた。どこに話の中心があるのか、分かりにくかったのだ。これはタイトル自身に問題があるのでは?と思った。「王様」も「ホログラム」も出番がわずか。出番がわずかであっても、全体を象徴するような大きな存在感があればいいのだが、それもいまいち分からず。「ホログラム」は、主人公の抱える心の葛藤などを投影する役割とも考えられるが、でも、もう少し映画内での存在感があってもよかったかな、と思った。「王様」にいたっては、数分しか出てこない。まあ、いつも姿が見えない、というのがジョークのネタではあるので、それはそれでいいのかな、と思ったり。

 

他にも、「うーむ」という箇所はいくつもあったのだが、何となく憎めないこの映画。それは、「ホログラム」という幻影にも近いものを取り扱っていながらも、リアリティを失いすぎていない設定だからだろう。トム・ハンクスは中年のおじさんで、色いろと人生が行き詰まっている。その中年疲れを隠さない、むしろ強調する役柄に好感を持てた。

 

もう一人の重要人物、女医もまた中年である。ハンクス同様、しわもそのまま、スリムすぎない自然な体形もそのまま。美しく凛としているが、架空に寄り過ぎない描き方が良かった。

 

私は映画を観る前に、あまり情報を知り過ぎたくない方なので、監督やキャストを調べないままに観た。そして観賞後に公式ホームページで、やっと情報を得た。するとそこにベン・ウィショーと出ているではないか。映画を観ながら、「この人ベン・ウィショーに似てるな。いや、でもこんな脇役に彼が出るか?カメオ出演だとしたら、アップのシーンくらいあるだろうし。」などと考えていたのだが、本当に彼だったとは。トム・ティクヴァ監督の常連だということだ。それは粋な配役。ウィショーは私の気に入る映画によく出ている。

 

あと、気になったのは宗教の描き方。アメリカ人の主人公が、ムスリム文化のなかで体験することをジョークも交えながら見せていくわけだが、その文化に詳しくない私は、どこまでが「わっはっは」と笑ってもいいギャグなのかが分からなかった。そして「大丈夫かな。叱られる表現ではないのかな」と一人でハラハラしていた。特に昨今の緊迫した世の中を見ても、宗教の話題は慎重にならざるをえない感がある。ただし、寛容さがあるからこそジョークにできるという理屈もあるだろう。文化の違いがあっても、「それは些細なこと」という、劇中のセリフのように、人間同士の繋がりを大切にしようというメッセージだと受け取った。

 

最後に、心に残ったシーンを一つ。主人公は女医に手術してもらったのだが、のちのやりとりで、「君は何か忘れ物をしていないかい?例えば、ゴム手袋とか。その人と再会する口実を作るために、わざと忘れ物をすることってあるよね」という言葉が出てくる。ここで思い出したのは、トム・ハンクスツイッター。彼は、街に落ちていたと思われる物をよく写真に撮ってアップしているのだ。特に多いのは「手袋」。時々見ては、「おもしろいことを呟くなあ」と思っていたのだが、まさにこのシーンと繋がったのである。ハンクスのツイッターありきで加えられたセリフなのでは?と思ったほどだ。原作は未読なので分からないが。「きっと、ハンクスはこのシーンをニヤニヤしながら演じたに違いない」と、これまた一人で想像しながら楽しんでいたのだった。また、「再会したいからわざと忘れ物をする」という言葉もいいなあと思った。故意に忘れ物をした記憶はないけれど、物の貸し借りなどは、そういう面も確かにあるな、と思った次第。

 

つらつらと書いたが、傑作ではないけどなんとなく観て良かったなという私の気持ちが伝われば嬉しい。