ストレス

この言葉を聞かない日はないというくらい、ストレス過多のこのご時世。

まずは忙しい。あれもしないと、これもしないと。こんなにやってるのになぜ進まない。今日やろうと思ってたことの三分の一すらできなかった。。という思いの連続。

そして人間関係。どんなコミュニティであっても、どうしたって合わない人もいる。お互い様に。例えば電車でみんな疲れているのに、詰めないでゆったりと座る人たち。なぜに詰めない。疲れ切った顔の乗客がたくさん前に立ってるのに。

パソコンが不調。ウィルス感染ではないけど、指定されたファイルがダウンロードできない。何度クリックしても再起動しても無駄。あげくに他の原因を延々と探り、取引の先方にアドバイス要求のメールを送った直後に問題解決。それはよかったが、先方にまた謝罪のメール。なんとも。。

これは比較的気楽に暮らしている私の日常。それが、猛烈に働いている人びとともなればどんなにストレスまみれであろうか。

そこで見つけ出したストレス解消法。お金ゼロ。家からゼロ分。
お風呂上がりに庭で夕涼み。それだけ。
月を探して眺める。ひんやりとしたそよ風。きれいな夜景の代わりに、目の前には物置がドーン。でもこの際どうでもいい。この夕涼みがまたとんでもなく気持ちいい。暖まった体が冷やーとしていく瞬間。その数分間が至福。脇にキンキンにしやしたジンジャーエールなんてあった日には。もう。

もう寝ようと決めたら、部屋の電灯は消して枕元の小さな読書灯をパチリ。一時間のタイマー付きだから安心。そして読書タイム。どうしても誘惑に負けるときは、その前にラジオのお気に入りエピソードを聴く。暗闇の中で、目を閉じながら。ニヤニヤしたり、ふむふむとうなったり。
次に読書。一番読みたい本を読めるなら最高だが、まずは課題用に緊急のものからチョイス。ほのかな灯りの横で、無音で行う読書は楽しい。楽しければ読み続けてしまい、眠れないのが欠点。程々に難しい本だと、いつの間にか眠気が来てスヤスヤとなっていて素晴らしい。

みんなもそれぞれのストレス解消法があるのだろう。小さな楽しみをたくさん見つけられる人が得をするの世の中。うまくリラックスしながら、明日への英気を養いたい。

『橋のない川 第一部』

今井正監督の作品を初めて観た。「戦後ヒューマニズムといえばこの人」という形容詞で語られる氏だが、未見であったのだ。近所の小さなツタヤにわずかに置いてあった数作から、何となく『橋のない川』第一部と第二部を借りた。

結論から言えば、大変に面白かった。面白いとは、楽しく笑える意味の面白いではない。内容は正反対の深刻さである。興味深いと言えばより正しく聞こえるだろうか。

これは、部落での差別問題を扱った作品だ。それすら知らないで観たものだから、そこに繰り広げられる差別の連続に胸が傷んだ。第一部は特にそうであった。なぜなら、子どもたちの生活が物語の中心だからだ。子どもらは、差別のなんたるかをまだ理解していない。理解していないが、立派に部落の村を差別する。特に「エッタは汚い」という無根拠な理由で、部落である小森村の生徒をいじめる。

登場する先生もまた、わかりやすく差別主義者、そして被差別部落の人びとに同情する者とにわかれる。「部落の方たちは、社会構造によってひどい仕打ちをうけているのでは」と、差別に理解のある先生が言う。しかし一方の先生は呆れたような冷笑しかしない。「あいつら(部族の人びと)自身に原因があるんですよ」と。

子どもらしいかわいい初恋、修学旅行、そんな時にも差別の壁は立ち塞がる。被差別層でない女の子からそっと手を握られ嬉しく思う、部落民の主人公。しかしのちに、それは女の子が、「部落の人たちの手は夜になると白蛇のように冷たくなる」という言説を確かめたかったからそうした、ということが明らかになる。少年は彼女の手のぬくもりを何度も確かめたであろうその自分の手を、「このやろう このやろう」と言いながら、ひたすら木に打ちつける。

そんなエピソードは枚挙に暇がない。その理不尽さに唖然としながらも、この世には確かにそのような階級社会による悲劇が繰り返されてきたのだろうと思わされる。そして、貧困に陥った女性の何割かは身を売られる。この構造は現代でも珍しくない。不況続きで先が真っ暗なこの時代、最低賃金ワーキングプアになるよりはと、徐々に風俗に染まっていく女性が多いのも理解できる。本当に望んでそうするなら問題ないが、やむにやまれずだったとしたら、こんなに辛いことはない。そんな現代とのつながりも思い起こした。

おばあさん役の方の演技が素晴らしかった。どこからどう見ても、そこにいるそのおばあさんにしか見えない。実在感が半端ではないのだ。方言まるだしで、シワシワの顔をしながら、草鞋づくりに励む彼女。孫が、差別を理由に叱られたと聞くと、学校の職員室に突撃する。孫は、部落民だとからかわれて、友人と喧嘩になったのだ。しかし彼は、決してその経緯を先生たちに言わない。だからずっとバケツを持って立たされていたのだ。おばあさんはすぐに何が起こったのかを見抜く。そして校長らに言う。「あの子が理由をしゃべらんのは、自分がエッタやから差別されたいうことを口にしたくねえからです。先生、こんなことが許されてええんでしょうか」と、このようなことを泣きながら述べる(台詞は記憶によって書いたので、完全に正しいわけではない)。その迫力たるや凄まじく、彼女が長年抱いてきた悔しさが爆発しているような熱演である。

部落問題についての知識が自分にあまりにないことに気付かされた作品だった。これを機会に原作を読み、理解を深めたい。時代がたったらなくなるというような簡単な問題ではないのだろう。人間はいつの時代にも階層社会を作り、それぞれが、自分より下の身分を虐げることで安心してきた。そしてその不満が下に行くほど、本来向かうはずのトップには怒りが向かず、すぐ上の階層と闘争するという、トップには都合の良い社会構造が珍しくなかった。その不合理さは、現代でもなくなってはいないのだろう。少しでも知識を得たいので、勉強をしてみようと思う。そして今井正という監督作を、今後も続けて鑑賞していきたい。

 

 

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』感想

長らく「いつか観よう」リストに入っていた『ウルフ・オブ・ウォールストリート』をやっと鑑賞した。なるほど、これは快作である。とにかくディカプリオが、全身全霊でとんでもない株屋の役を演じている。イカサマまがいの株取引で、あれよあれよという間に億万長者になってゆく主人公。そしてドラッグが大好き。ストリッパーがなだれ込むオフィス、私は見たことない。パーティーの余興として、百万ドルと引き換えに、みんなの前でバリカンで丸坊主にされる女性の姿も。まばらな坊主頭で、嬉しそうに金を掴む姿が何とも言えない。

出てくる人の8割が、どこかぶっとんでいる。クスリのせいもあるだろうし、湯水のごとく湧いてくる大金によって、常識がなくなっていく。持ち前の上昇志向で身につけた煽り文句を武器に、ディカプリオは客にも部下にも巧みな文句を叫び、煽る。その言葉は狂乱的な雰囲気を作り出し、客は大金を叩いて得体の知れない株を買う。数日までうだつのあがらない人生を送っていた部下たちは、興奮し、取り憑かれたように主人公の真似をして株取引を成立させていく。まるで怪しいセミナーのようだ。そして実際儲かるのだから、皆が正常さを失っていくのも仕方ないだろう。

文字で読めば、「なにそのやな感じの人たちのバカみたいな話」で終わりそうなのだが、スコセッシはうまい。半狂乱の日常を、説教臭くなくポップにしあげている。この明るさが見ていて清々しい。あと、時代設定が1970年代後半頃からなので、ファッションが古い。その、今から見たらダサく感じるその風貌も、この嫌な感じの話を見やすくしている一因だと考える。

株取引の詳細は知らないし、映画内での説明も細かいところまでは理解できなかった。しかし、これだけはわかった。素人が株に夢を託すと痛い目にあう。そんな資金もないのだが、私は株はやめておこう、と思った。

良心の呵責もなく稼ぎまくっても、きっと心は侘びしかったのでは。

ウォール街でばりばり働いて今でも稼ぎまくっている人びとは、これを観てどう思うだろうか。皮肉な笑みを浮かべながらも、「こいつはこいつ、俺は俺」と、また翌日も株取引に専念するのだろうか。富の集中が緩和されていくのは、遠い日であってほしくないのだが。ゲラゲラ笑いながらも、真面目にそんなことを考えさせられる作品だった。

 

 

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

楽しみにしていたこの映画。期待通りの名作だった。

真面目に生きてきたつもりなのに、いつの間にか貧困におちいる登場人物たち。これは、今まさに世界各地で起きている現象だ。また、もし現在は恵まれた層にいたとしても、その地位が今後長く続くという保証は不確かな時代。この映画を観て他人ごとと捉える人は少数派だろうし、その人は感受性が鈍っていると考えたほうがよいのではないか。

少々(いや、かなり?)頑固だけど、根はいいおじいさん。彼は家族と離れ孤独だが、赤の他人と思っていた人びととの交流から楽しみや希望を見出す。この映画のストーリーは、今年観たある映画に似ていた。スウェーデン映画の『幸せなひとりぼっち』だ。どちらも地味ではある。大スペクタクルは出てこない。しかし、日常の厳しさと、コミカルさをうまくかけ合わせ、日々を生きる一般の人びとを真摯に描く。こういった静かだが上質な映画がそこそこヒットする世の中は、捨てたものじゃないなと思う。

そして、私はこの映画を観ながら、もう一本のある映画を思い出していた。『未来を花束にして』だ。イギリスで実際にあった、女性参政権獲得運動を描いた物語である。それを思い出したのは、ラストシーンで、ダニエルの持っていた自筆の手紙が話題になった時だった。ダニエルは彼自身の境遇を書き留め、世の中の不条理を訴えようとしていた。それと同じように、『未来を花束にして』の主人公は、彼女の生きてきた、極貧の洗濯女としての劣悪な人生を世の中に訴えかける。貧困層の彼や彼女が、ある偶然から、自らの体験を通して感じた世の歪みを問いかける言葉には、心を打たれないわけにはいかなかった。

本作はストーリーもさることながら、撮影手法も見事だった。余計な演出がない。若くして苦労するシングルマザー、ケイティが、お風呂場を掃除している時に、ふとタイルが落ちる。仕事もなく、お腹も空き、明日も見えない状態。その絶望感が、その瞬間にどっと押し寄せる。彼女は階段に座り、そっと涙を流すだけなのだが、それだけで大きな苦悩がこちらまで伝わる。派手な言動がなくても、いや、ないからこそ伝わるものも大きい。

ダニエルの演出にしてもそうだ。本作でおそらく最も盛り上がるのは、彼が役所の壁にある落書きをする場面だ。一市民が、長く続く不条理に耐えかねて起こす犯行が、スプレーでの落書き。殺人が横行するアクション映画に比べれば比較にならないほど地味だが、実際の我われの日常生活とはそういったものである。壁への落書きだって、かなりの勇気を伴うものだろう。ダニエルのその行動は、通りすがりのホームレスや、近所の若者の称賛を浴びる。ささやかながら、これは彼の精一杯の反抗であり、挑戦だったのだ。

最後に、この作品は、それを鑑賞した瞬間から、社会運動に参加できる仕組みになっている。それは以下のようなキャンペーンを行っているからだ。

「映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、本映画を通じて得られる収益を、
貧困に苦しむ人々を支援する団体に、有料入場者1名につき50円寄付いたします。」(公式ホームページより)

さすがはケン・ローチ監督。映画は楽しめる、寄付はできる。とても良い気分になって劇場を後にした。もちろん、本作の内容が架空の出来事と思えるほど、不公平のない平和な現実であった方が本当はよい。でも、そうでないならば、まずはこの映画を観て、エンターテイメント作品として楽しみつつ、社会に潜む諸問題について考えてみるのも良いのではないか。

水風呂体験記

先日、スーパー銭湯へ行った。サウナと水風呂のサイクルが気持ちいいという噂を聞いたからだ。

普段ジムにもいかず、歩いて行ける近所にスーパー銭湯があるわけでもない私なので、サウナというものにはすっかりご無沙汰になっていた。でも調べてみたら、いつも歩いている街中にもけっこうあるものだ。大きなお風呂にもたまには浸かりたいと思っていたので、さっそく訪れた。

しかし、どこでも初めての場所というのはまごつくもの。フロントですでに、「どこで靴を脱ぐのか」ということから悩んでしまった。「初めてなんです」とすぐに伝えたら、丁寧ににこやかに接客してくれた。

料金を払って、隣のドアを開けると、すぐ前がロッカールームだった。多少キョロキョロしながら部屋に入る。大昔に通っていたジムの記憶と混ざり、どこからが服を全部脱いでいいゾーンなのか、あるいはどこからは服を着ていないとおかしい場所なのか、それすらもおぼつかない。でも、少し先の扉を見ると、そこがもうお風呂らしい。ということは、ここですっかり裸になっていいのだな。と思うがいなや、さっさと素っ裸になってお風呂に向った。銭湯慣れしている日本人なので、いったん脱いでしまったらなんてことはない。スタスタとお風呂ルームに入る。

入ると、いくつかの湯船に遭遇した。目の前の湯船にある液体を、そっと体にかけてみる。お、水だ!水風呂だ。いきなり入るなんて無理なので、いそいそと隣の普通の湯に移動し、かけ湯をしてから浸かる。

ジェットバスだのなんだの、数分ごとにクルクルと周って楽しんでから、ついにサウナに入ることにした。サウナは正直言って、得意ではない。昔入った何回かは、「気持ちいい」に行き着く前に「暑い、苦しい、もうダメ」の気持ちがまさり、好んで行く方ではなかった。だから今回もそんなに期待せずに入った。でも、なぜだろう。今回は暑すぎる気がしない。温度が昔のものより低かったのか? システムが新しいのか? 理由はわからない。でも、とにかくすんなりとサウナ自体を楽しめた。

何分かは計っていなかったが、「そろそろ出ようかな」という気分になった。そう、ついに水風呂タイムとなったのだ。いつぶりだろう、水風呂。水に浸かる。その行為に、最初は驚いたものだ。「夏の海でも、最初は凍えそうなのに!」と。でもサウナの後なのだ。きっと平気に違いない。証拠に、目の前にいるベテラン風の女性は躊躇なく水風呂に入ったではないか。私もそれに続こう。

そしてかけ湯(水?)をする。やっぱり冷たい。。でも我慢して脚に、腕にとかける。そろそろ浴槽に入ろうかな。片方の足を恐るおそる入れた。うーん、冷たい。でもここが勝負だ。私はまるでクラウチングスタートを初めてやってみた人みたいな恰好で、おまけにどうやってもお腹までしか浸かれず、フルフルと震えていた。

「今回はこの辺にしておこう。心臓にもしものことがあってはいけない」私はそう心で言葉にしてから、またサウナ室へ入った。今度も気持ちいい。ベテランさん達が座っていた、入ってすぐのところは避けて、なんとなく遠慮がちに奥の方に座る。さっきよりも快適な気がする。ぼーっとしながら、長めに座っていた。

今度こそ肩まで水風呂に浸かろう。そう決意して、水風呂に向かう。かけ水をしてから、そっと足を入れる。またもベテランさんさちが、なんの躊躇もなくスピーディに全身を浸からせた。「私もできるはず」そう信じて、平気な顔を装い体を沈めていく。しかし、どうしてもお腹の少し上で止まってしまう。「私はあえてこのあたりまでで止めているの。これが好みなの」と、誰にも気にされていないのに、心で言い訳をする。

またサウナ室へ戻ることにした。座っていると、スタッフの方が入ってきた。何やら、ハーブの香りをする物体を持ち込み、さらにそれを部屋に充満させるため、タオルを振ってくれるらしい。確かにハーブのよい香りがしてきた。そしてそのタオルの振り方が、まるでブルース・リーのヌンチャクのような扱いであった。なんだかかっこいい。おっちょこちょいな私がやったら、手からすべって、お客様の顔にバシンとぶつけてしまうのではないか。そんなことを考えながら、華麗なその手つきを眺めていた。おまけに、最後にはサウナ室にいる一人一人に、三度ずつ、船の帆みたいな布で風を送ってくれた。バサッ、バサッ、バサッ。きれのあるその振り方に、またも見とれ、そして風も心地よく受け止めた。

さあ、今度こそ。三度目の正直である。サウナ室を出て、水風呂に向った。いったん躊躇するから、なんだか凍えた気分になってしまうのだ。きっと体の準備はできているに違いない。今回は、ゆっくり、でも止まることなく水に体を沈めていった。お腹までくると「あっ、どうしよう」となったが、でも我慢。きっとすごい顔をしていたかと思うが、ついに肩まで浸かれた。「ふあっ」という、間抜けな声が出た。でもベテランさんたちは聞えなかったフリをしてくれた。いや、そもそも私の行動など気になっていなかったのが本当だろう。

水風呂は、最初は寒い。どんなにサウナに入った後でも。しかし数秒後、不思議な感覚に襲われる。むしろ温かく感じてくるのだ。まさに、海に凍えながら浸かって、しだいに浜辺にいるときより、海の中の方が温かく感じてくるときに似ている。あれの凝縮バージョンとでも言おうか。私の毛穴が今、開いたり閉じたりしている! という妄想が駆け巡る。これはきっと老廃物を排出しているはずだ。血のめぐりもよくなっているはずだ。科学的なことは分からないが、気分としてはそうなる。汗をたくさんかいて、今度は急激に冷やす。こんなに単純なことが、こんなに気持ちいいなんて。やっと全身浸かれた喜びもあいまって、ニヤニヤとしながら、でも平静を装ってそのままじっとしていた。

サウナ→水風呂の流れは、全部で20分近くの出来事である。たったこれだけの時間で、大きな冒険ができた。「わざわざ二千円ちかくも払って、お風呂もなあ」と、今まで関心のなかった私だが、これからは何かのご褒美として、時々浸かりに来ようかな、と思った。

『王様のためのホログラム』

久しぶりに映画の感想を書こうと思う。

 

『王様のためのホログラム』。この映画を知っている人はどれほどいるだろう。

 

『ラ・ラ・ランド』旋風吹き荒れる中、小さなスクリーンでひっそりと公開しているように見えるこの映画。私も『ラ・ラ・ランド』をもう一度観ようかな、と時間ギリギリまで迷った末に観たのが正直なことろである。ごめんよ、トム・ハンクス

 

一言で言えば、少し退屈、でも心地よい作品だった。退屈の理由は、脚本に原因があると感じた。どこに話の中心があるのか、分かりにくかったのだ。これはタイトル自身に問題があるのでは?と思った。「王様」も「ホログラム」も出番がわずか。出番がわずかであっても、全体を象徴するような大きな存在感があればいいのだが、それもいまいち分からず。「ホログラム」は、主人公の抱える心の葛藤などを投影する役割とも考えられるが、でも、もう少し映画内での存在感があってもよかったかな、と思った。「王様」にいたっては、数分しか出てこない。まあ、いつも姿が見えない、というのがジョークのネタではあるので、それはそれでいいのかな、と思ったり。

 

他にも、「うーむ」という箇所はいくつもあったのだが、何となく憎めないこの映画。それは、「ホログラム」という幻影にも近いものを取り扱っていながらも、リアリティを失いすぎていない設定だからだろう。トム・ハンクスは中年のおじさんで、色いろと人生が行き詰まっている。その中年疲れを隠さない、むしろ強調する役柄に好感を持てた。

 

もう一人の重要人物、女医もまた中年である。ハンクス同様、しわもそのまま、スリムすぎない自然な体形もそのまま。美しく凛としているが、架空に寄り過ぎない描き方が良かった。

 

私は映画を観る前に、あまり情報を知り過ぎたくない方なので、監督やキャストを調べないままに観た。そして観賞後に公式ホームページで、やっと情報を得た。するとそこにベン・ウィショーと出ているではないか。映画を観ながら、「この人ベン・ウィショーに似てるな。いや、でもこんな脇役に彼が出るか?カメオ出演だとしたら、アップのシーンくらいあるだろうし。」などと考えていたのだが、本当に彼だったとは。トム・ティクヴァ監督の常連だということだ。それは粋な配役。ウィショーは私の気に入る映画によく出ている。

 

あと、気になったのは宗教の描き方。アメリカ人の主人公が、ムスリム文化のなかで体験することをジョークも交えながら見せていくわけだが、その文化に詳しくない私は、どこまでが「わっはっは」と笑ってもいいギャグなのかが分からなかった。そして「大丈夫かな。叱られる表現ではないのかな」と一人でハラハラしていた。特に昨今の緊迫した世の中を見ても、宗教の話題は慎重にならざるをえない感がある。ただし、寛容さがあるからこそジョークにできるという理屈もあるだろう。文化の違いがあっても、「それは些細なこと」という、劇中のセリフのように、人間同士の繋がりを大切にしようというメッセージだと受け取った。

 

最後に、心に残ったシーンを一つ。主人公は女医に手術してもらったのだが、のちのやりとりで、「君は何か忘れ物をしていないかい?例えば、ゴム手袋とか。その人と再会する口実を作るために、わざと忘れ物をすることってあるよね」という言葉が出てくる。ここで思い出したのは、トム・ハンクスツイッター。彼は、街に落ちていたと思われる物をよく写真に撮ってアップしているのだ。特に多いのは「手袋」。時々見ては、「おもしろいことを呟くなあ」と思っていたのだが、まさにこのシーンと繋がったのである。ハンクスのツイッターありきで加えられたセリフなのでは?と思ったほどだ。原作は未読なので分からないが。「きっと、ハンクスはこのシーンをニヤニヤしながら演じたに違いない」と、これまた一人で想像しながら楽しんでいたのだった。また、「再会したいからわざと忘れ物をする」という言葉もいいなあと思った。故意に忘れ物をした記憶はないけれど、物の貸し借りなどは、そういう面も確かにあるな、と思った次第。

 

つらつらと書いたが、傑作ではないけどなんとなく観て良かったなという私の気持ちが伝われば嬉しい。

『この世界の片隅に』感想

映画『この世界の片隅に』を観た。

原作が好きで、映画関係者による絶賛もさんざん聞いてきた上での鑑賞。当然期待値は上がり、自分の評価も厳し目になってしまうだろうと予想していた。しかし、実際は主人公のすずさんが登場した瞬間に、すでにウルッときてしまった。あまりにその世界観がそのまま現れていて感激したのだろう。

ほんわか、ふんわかしたすずさんの性格が滲み出てくるような絵。空気感。それなのに、ワンシーンごとに詰まっている情報量は密である。各人物の個性や、時代背景、景色、そういった画面の隅々にわたるもののディテールが、明確な説明なしに組み込まれている。説明過多な映画が多いなか、その不親切といえるほどの自然さが心地よかった。

説明が過ぎないと言うことは、謎がそのままであるということ。観ている側は「どういうことだろう?」と考えながら、また、とりあえずの解釈をしながら話を追っていく。気になれば観賞後に自分で調べるだろうし、気にならない箇所はひとまずわからないままでもいい。「このシーンのこの人物はこういう気持ちなんです」「このカットではこれを主張したいんです」という押し付けがましさがない。「戦争」という、人類史上もっとも悲しく恐ろしい時代を背景にしながらも、イデオロギー色は入れない、もしくはそれを見出したければ自分なりに考えればいいというスタイルに感じられた。人間の行動や歴史は、白黒割り切れないことのほうが多い。グレーさを残して、判断は観客に委ねるという作り方が私には好みだった。

兄弟姉妹のやり取りの愛おしさ、戦争中にあってもなんとか明るく日常を生きようとする人びと。そんな描写が続くので、こちらが励まされる気持ちになる。本当は食べ物もなく、不条理な現実に苦しんでいるはずなのに、この作品ではそれを全面に出さない。戦時中には、悲しんで人前で堂々と泣くという行為は、反戦として禁じられていたとか。だから、本音はどうあれ、それを表せなかっという理由もあるだろう。戦争を知らない世代が見たら、「けっこう楽しくやってたんだな」と一見思ってしまうかもしれないほどだ。けれどそのぶん、実際にあったひもじさや暴力、原爆などの凄惨さに思いを馳せれば、そのギャップに打ちのめされる。

私が一番心に残ったのは、玉音放送を聞いたあとのすずさんの思いだ。突然「戦争が終わりました」と言われても納得がいかない。どんなに苦しくても、前向きにひたすらにお国のために尽くしてきた。その気持ちをなんとか支えていた理由づけが、一瞬でなくなる。こんなことが許されるのか。計り知れない虚無感、怒り、悲しみに襲われるなら、いっそなにも知らないままに死んでしまえばよかった。そういう意味の台詞だったと思う。

こんなにほんわかと優しい女の子ですら、戦争の意義を疑っていなかった。そうしなければ生きていけない時代だったろうし、またそういった教育と雰囲気で育った時代なのだから、多くの人は彼女のような考え方だったのだろう。あるいは、何かがおかしいと思っても、それを素直に表明することはままならなかった。大切なものをなくし、自分自身も生きる意味を問うてしまうような大怪我をしたすずさんが、それでも玉音放送を聞くまで戦争を肯定しようとしていたこと。この歴史を学び直すことは、我々にとっても大切だろう。

以上は私なりの解釈であり、作者らや、他の鑑賞者にはまた違う思いがあるのかもしれない。可愛らしい絵柄のアニメであるが、決してかわいいだけではない。観たあとも、そして翌日になっても、この作品のことを思い出す。それほど印象に残る深みがある。

コトリンゴの歌う「悲しくてやりきれない」も、フワフワと優しいようで、重みも感じさせる。原作マンガ、アニメ映画同様、「ああ、感動した〜。いい作品だった」だけではすませられないような、何かを訴える力を持っている。

ちなみに、エンドロールの最後の最後は、にくい演出だなあと思ったものだ。「物語の終わり」という意味とともに、「誰もがこの世界の片隅に居場所を見つけられる、そんな社会にしてね」というバトンを受け取った気がした。