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『わたしは、ダニエル・ブレイク』

楽しみにしていたこの映画。期待通りの名作だった。

真面目に生きてきたつもりなのに、いつの間にか貧困におちいる登場人物たち。これは、今まさに世界各地で起きている現象だ。また、もし現在は恵まれた層にいたとしても、その地位が今後長く続くという保証は不確かな時代。この映画を観て他人ごとと捉える人は少数派だろうし、その人は感受性が鈍っていると考えたほうがよいのではないか。

少々(いや、かなり?)頑固だけど、根はいいおじいさん。彼は家族と離れ孤独だが、赤の他人と思っていた人びととの交流から楽しみや希望を見出す。この映画のストーリーは、今年観たある映画に似ていた。スウェーデン映画の『幸せなひとりぼっち』だ。どちらも地味ではある。大スペクタクルは出てこない。しかし、日常の厳しさと、コミカルさをうまくかけ合わせ、日々を生きる一般の人びとを真摯に描く。こういった静かだが上質な映画がそこそこヒットする世の中は、捨てたものじゃないなと思う。

そして、私はこの映画を観ながら、もう一本のある映画を思い出していた。『未来を花束にして』だ。イギリスで実際にあった、女性参政権獲得運動を描いた物語である。それを思い出したのは、ラストシーンで、ダニエルの持っていた自筆の手紙が話題になった時だった。ダニエルは彼自身の境遇を書き留め、世の中の不条理を訴えようとしていた。それと同じように、『未来を花束にして』の主人公は、彼女の生きてきた、極貧の洗濯女としての劣悪な人生を世の中に訴えかける。貧困層の彼や彼女が、ある偶然から、自らの体験を通して感じた世の歪みを問いかける言葉には、心を打たれないわけにはいかなかった。

本作はストーリーもさることながら、撮影手法も見事だった。余計な演出がない。若くして苦労するシングルマザー、ケイティが、お風呂場を掃除している時に、ふとタイルが落ちる。仕事もなく、お腹も空き、明日も見えない状態。その絶望感が、その瞬間にどっと押し寄せる。彼女は階段に座り、そっと涙を流すだけなのだが、それだけで大きな苦悩がこちらまで伝わる。派手な言動がなくても、いや、ないからこそ伝わるものも大きい。

ダニエルの演出にしてもそうだ。本作でおそらく最も盛り上がるのは、彼が役所の壁にある落書きをする場面だ。一市民が、長く続く不条理に耐えかねて起こす犯行が、スプレーでの落書き。殺人が横行するアクション映画に比べれば比較にならないほど地味だが、実際の我われの日常生活とはそういったものである。壁への落書きだって、かなりの勇気を伴うものだろう。ダニエルのその行動は、通りすがりのホームレスや、近所の若者の称賛を浴びる。ささやかながら、これは彼の精一杯の反抗であり、挑戦だったのだ。

最後に、この作品は、それを鑑賞した瞬間から、社会運動に参加できる仕組みになっている。それは以下のようなキャンペーンを行っているからだ。

「映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、本映画を通じて得られる収益を、
貧困に苦しむ人々を支援する団体に、有料入場者1名につき50円寄付いたします。」(公式ホームページより)

さすがはケン・ローチ監督。映画は楽しめる、寄付はできる。とても良い気分になって劇場を後にした。もちろん、本作の内容が架空の出来事と思えるほど、不公平のない平和な現実であった方が本当はよい。でも、そうでないならば、まずはこの映画を観て、エンターテイメント作品として楽しみつつ、社会に潜む諸問題について考えてみるのも良いのではないか。

水風呂体験記

先日、スーパー銭湯へ行った。サウナと水風呂のサイクルが気持ちいいという噂を聞いたからだ。

普段ジムにもいかず、歩いて行ける近所にスーパー銭湯があるわけでもない私なので、サウナというものにはすっかりご無沙汰になっていた。でも調べてみたら、いつも歩いている街中にもけっこうあるものだ。大きなお風呂にもたまには浸かりたいと思っていたので、さっそく訪れた。

しかし、どこでも初めての場所というのはまごつくもの。フロントですでに、「どこで靴を脱ぐのか」ということから悩んでしまった。「初めてなんです」とすぐに伝えたら、丁寧ににこやかに接客してくれた。

料金を払って、隣のドアを開けると、すぐ前がロッカールームだった。多少キョロキョロしながら部屋に入る。大昔に通っていたジムの記憶と混ざり、どこからが服を全部脱いでいいゾーンなのか、あるいはどこからは服を着ていないとおかしい場所なのか、それすらもおぼつかない。でも、少し先の扉を見ると、そこがもうお風呂らしい。ということは、ここですっかり裸になっていいのだな。と思うがいなや、さっさと素っ裸になってお風呂に向った。銭湯慣れしている日本人なので、いったん脱いでしまったらなんてことはない。スタスタとお風呂ルームに入る。

入ると、いくつかの湯船に遭遇した。目の前の湯船にある液体を、そっと体にかけてみる。お、水だ!水風呂だ。いきなり入るなんて無理なので、いそいそと隣の普通の湯に移動し、かけ湯をしてから浸かる。

ジェットバスだのなんだの、数分ごとにクルクルと周って楽しんでから、ついにサウナに入ることにした。サウナは正直言って、得意ではない。昔入った何回かは、「気持ちいい」に行き着く前に「暑い、苦しい、もうダメ」の気持ちがまさり、好んで行く方ではなかった。だから今回もそんなに期待せずに入った。でも、なぜだろう。今回は暑すぎる気がしない。温度が昔のものより低かったのか? システムが新しいのか? 理由はわからない。でも、とにかくすんなりとサウナ自体を楽しめた。

何分かは計っていなかったが、「そろそろ出ようかな」という気分になった。そう、ついに水風呂タイムとなったのだ。いつぶりだろう、水風呂。水に浸かる。その行為に、最初は驚いたものだ。「夏の海でも、最初は凍えそうなのに!」と。でもサウナの後なのだ。きっと平気に違いない。証拠に、目の前にいるベテラン風の女性は躊躇なく水風呂に入ったではないか。私もそれに続こう。

そしてかけ湯(水?)をする。やっぱり冷たい。。でも我慢して脚に、腕にとかける。そろそろ浴槽に入ろうかな。片方の足を恐るおそる入れた。うーん、冷たい。でもここが勝負だ。私はまるでクラウチングスタートを初めてやってみた人みたいな恰好で、おまけにどうやってもお腹までしか浸かれず、フルフルと震えていた。

「今回はこの辺にしておこう。心臓にもしものことがあってはいけない」私はそう心で言葉にしてから、またサウナ室へ入った。今度も気持ちいい。ベテランさん達が座っていた、入ってすぐのところは避けて、なんとなく遠慮がちに奥の方に座る。さっきよりも快適な気がする。ぼーっとしながら、長めに座っていた。

今度こそ肩まで水風呂に浸かろう。そう決意して、水風呂に向かう。かけ水をしてから、そっと足を入れる。またもベテランさんさちが、なんの躊躇もなくスピーディに全身を浸からせた。「私もできるはず」そう信じて、平気な顔を装い体を沈めていく。しかし、どうしてもお腹の少し上で止まってしまう。「私はあえてこのあたりまでで止めているの。これが好みなの」と、誰にも気にされていないのに、心で言い訳をする。

またサウナ室へ戻ることにした。座っていると、スタッフの方が入ってきた。何やら、ハーブの香りをする物体を持ち込み、さらにそれを部屋に充満させるため、タオルを振ってくれるらしい。確かにハーブのよい香りがしてきた。そしてそのタオルの振り方が、まるでブルース・リーのヌンチャクのような扱いであった。なんだかかっこいい。おっちょこちょいな私がやったら、手からすべって、お客様の顔にバシンとぶつけてしまうのではないか。そんなことを考えながら、華麗なその手つきを眺めていた。おまけに、最後にはサウナ室にいる一人一人に、三度ずつ、船の帆みたいな布で風を送ってくれた。バサッ、バサッ、バサッ。きれのあるその振り方に、またも見とれ、そして風も心地よく受け止めた。

さあ、今度こそ。三度目の正直である。サウナ室を出て、水風呂に向った。いったん躊躇するから、なんだか凍えた気分になってしまうのだ。きっと体の準備はできているに違いない。今回は、ゆっくり、でも止まることなく水に体を沈めていった。お腹までくると「あっ、どうしよう」となったが、でも我慢。きっとすごい顔をしていたかと思うが、ついに肩まで浸かれた。「ふあっ」という、間抜けな声が出た。でもベテランさんたちは聞えなかったフリをしてくれた。いや、そもそも私の行動など気になっていなかったのが本当だろう。

水風呂は、最初は寒い。どんなにサウナに入った後でも。しかし数秒後、不思議な感覚に襲われる。むしろ温かく感じてくるのだ。まさに、海に凍えながら浸かって、しだいに浜辺にいるときより、海の中の方が温かく感じてくるときに似ている。あれの凝縮バージョンとでも言おうか。私の毛穴が今、開いたり閉じたりしている! という妄想が駆け巡る。これはきっと老廃物を排出しているはずだ。血のめぐりもよくなっているはずだ。科学的なことは分からないが、気分としてはそうなる。汗をたくさんかいて、今度は急激に冷やす。こんなに単純なことが、こんなに気持ちいいなんて。やっと全身浸かれた喜びもあいまって、ニヤニヤとしながら、でも平静を装ってそのままじっとしていた。

サウナ→水風呂の流れは、全部で20分近くの出来事である。たったこれだけの時間で、大きな冒険ができた。「わざわざ二千円ちかくも払って、お風呂もなあ」と、今まで関心のなかった私だが、これからは何かのご褒美として、時々浸かりに来ようかな、と思った。

『王様のためのホログラム』

久しぶりに映画の感想を書こうと思う。

 

『王様のためのホログラム』。この映画を知っている人はどれほどいるだろう。

 

『ラ・ラ・ランド』旋風吹き荒れる中、小さなスクリーンでひっそりと公開しているように見えるこの映画。私も『ラ・ラ・ランド』をもう一度観ようかな、と時間ギリギリまで迷った末に観たのが正直なことろである。ごめんよ、トム・ハンクス

 

一言で言えば、少し退屈、でも心地よい作品だった。退屈の理由は、脚本に原因があると感じた。どこに話の中心があるのか、分かりにくかったのだ。これはタイトル自身に問題があるのでは?と思った。「王様」も「ホログラム」も出番がわずか。出番がわずかであっても、全体を象徴するような大きな存在感があればいいのだが、それもいまいち分からず。「ホログラム」は、主人公の抱える心の葛藤などを投影する役割とも考えられるが、でも、もう少し映画内での存在感があってもよかったかな、と思った。「王様」にいたっては、数分しか出てこない。まあ、いつも姿が見えない、というのがジョークのネタではあるので、それはそれでいいのかな、と思ったり。

 

他にも、「うーむ」という箇所はいくつもあったのだが、何となく憎めないこの映画。それは、「ホログラム」という幻影にも近いものを取り扱っていながらも、リアリティを失いすぎていない設定だからだろう。トム・ハンクスは中年のおじさんで、色いろと人生が行き詰まっている。その中年疲れを隠さない、むしろ強調する役柄に好感を持てた。

 

もう一人の重要人物、女医もまた中年である。ハンクス同様、しわもそのまま、スリムすぎない自然な体形もそのまま。美しく凛としているが、架空に寄り過ぎない描き方が良かった。

 

私は映画を観る前に、あまり情報を知り過ぎたくない方なので、監督やキャストを調べないままに観た。そして観賞後に公式ホームページで、やっと情報を得た。するとそこにベン・ウィショーと出ているではないか。映画を観ながら、「この人ベン・ウィショーに似てるな。いや、でもこんな脇役に彼が出るか?カメオ出演だとしたら、アップのシーンくらいあるだろうし。」などと考えていたのだが、本当に彼だったとは。トム・ティクヴァ監督の常連だということだ。それは粋な配役。ウィショーは私の気に入る映画によく出ている。

 

あと、気になったのは宗教の描き方。アメリカ人の主人公が、ムスリム文化のなかで体験することをジョークも交えながら見せていくわけだが、その文化に詳しくない私は、どこまでが「わっはっは」と笑ってもいいギャグなのかが分からなかった。そして「大丈夫かな。叱られる表現ではないのかな」と一人でハラハラしていた。特に昨今の緊迫した世の中を見ても、宗教の話題は慎重にならざるをえない感がある。ただし、寛容さがあるからこそジョークにできるという理屈もあるだろう。文化の違いがあっても、「それは些細なこと」という、劇中のセリフのように、人間同士の繋がりを大切にしようというメッセージだと受け取った。

 

最後に、心に残ったシーンを一つ。主人公は女医に手術してもらったのだが、のちのやりとりで、「君は何か忘れ物をしていないかい?例えば、ゴム手袋とか。その人と再会する口実を作るために、わざと忘れ物をすることってあるよね」という言葉が出てくる。ここで思い出したのは、トム・ハンクスツイッター。彼は、街に落ちていたと思われる物をよく写真に撮ってアップしているのだ。特に多いのは「手袋」。時々見ては、「おもしろいことを呟くなあ」と思っていたのだが、まさにこのシーンと繋がったのである。ハンクスのツイッターありきで加えられたセリフなのでは?と思ったほどだ。原作は未読なので分からないが。「きっと、ハンクスはこのシーンをニヤニヤしながら演じたに違いない」と、これまた一人で想像しながら楽しんでいたのだった。また、「再会したいからわざと忘れ物をする」という言葉もいいなあと思った。故意に忘れ物をした記憶はないけれど、物の貸し借りなどは、そういう面も確かにあるな、と思った次第。

 

つらつらと書いたが、傑作ではないけどなんとなく観て良かったなという私の気持ちが伝われば嬉しい。

『この世界の片隅に』感想

映画『この世界の片隅に』を観た。

原作が好きで、映画関係者による絶賛もさんざん聞いてきた上での鑑賞。当然期待値は上がり、自分の評価も厳し目になってしまうだろうと予想していた。しかし、実際は主人公のすずさんが登場した瞬間に、すでにウルッときてしまった。あまりにその世界観がそのまま現れていて感激したのだろう。

ほんわか、ふんわかしたすずさんの性格が滲み出てくるような絵。空気感。それなのに、ワンシーンごとに詰まっている情報量は密である。各人物の個性や、時代背景、景色、そういった画面の隅々にわたるもののディテールが、明確な説明なしに組み込まれている。説明過多な映画が多いなか、その不親切といえるほどの自然さが心地よかった。

説明が過ぎないと言うことは、謎がそのままであるということ。観ている側は「どういうことだろう?」と考えながら、また、とりあえずの解釈をしながら話を追っていく。気になれば観賞後に自分で調べるだろうし、気にならない箇所はひとまずわからないままでもいい。「このシーンのこの人物はこういう気持ちなんです」「このカットではこれを主張したいんです」という押し付けがましさがない。「戦争」という、人類史上もっとも悲しく恐ろしい時代を背景にしながらも、イデオロギー色は入れない、もしくはそれを見出したければ自分なりに考えればいいというスタイルに感じられた。人間の行動や歴史は、白黒割り切れないことのほうが多い。グレーさを残して、判断は観客に委ねるという作り方が私には好みだった。

兄弟姉妹のやり取りの愛おしさ、戦争中にあってもなんとか明るく日常を生きようとする人びと。そんな描写が続くので、こちらが励まされる気持ちになる。本当は食べ物もなく、不条理な現実に苦しんでいるはずなのに、この作品ではそれを全面に出さない。戦時中には、悲しんで人前で堂々と泣くという行為は、反戦として禁じられていたとか。だから、本音はどうあれ、それを表せなかっという理由もあるだろう。戦争を知らない世代が見たら、「けっこう楽しくやってたんだな」と一見思ってしまうかもしれないほどだ。けれどそのぶん、実際にあったひもじさや暴力、原爆などの凄惨さに思いを馳せれば、そのギャップに打ちのめされる。

私が一番心に残ったのは、玉音放送を聞いたあとのすずさんの思いだ。突然「戦争が終わりました」と言われても納得がいかない。どんなに苦しくても、前向きにひたすらにお国のために尽くしてきた。その気持ちをなんとか支えていた理由づけが、一瞬でなくなる。こんなことが許されるのか。計り知れない虚無感、怒り、悲しみに襲われるなら、いっそなにも知らないままに死んでしまえばよかった。そういう意味の台詞だったと思う。

こんなにほんわかと優しい女の子ですら、戦争の意義を疑っていなかった。そうしなければ生きていけない時代だったろうし、またそういった教育と雰囲気で育った時代なのだから、多くの人は彼女のような考え方だったのだろう。あるいは、何かがおかしいと思っても、それを素直に表明することはままならなかった。大切なものをなくし、自分自身も生きる意味を問うてしまうような大怪我をしたすずさんが、それでも玉音放送を聞くまで戦争を肯定しようとしていたこと。この歴史を学び直すことは、我々にとっても大切だろう。

以上は私なりの解釈であり、作者らや、他の鑑賞者にはまた違う思いがあるのかもしれない。可愛らしい絵柄のアニメであるが、決してかわいいだけではない。観たあとも、そして翌日になっても、この作品のことを思い出す。それほど印象に残る深みがある。

コトリンゴの歌う「悲しくてやりきれない」も、フワフワと優しいようで、重みも感じさせる。原作マンガ、アニメ映画同様、「ああ、感動した〜。いい作品だった」だけではすませられないような、何かを訴える力を持っている。

ちなみに、エンドロールの最後の最後は、にくい演出だなあと思ったものだ。「物語の終わり」という意味とともに、「誰もがこの世界の片隅に居場所を見つけられる、そんな社会にしてね」というバトンを受け取った気がした。
 
 

ゴジラと三葉

2016年の夏は二本の映画が大ヒットしている。庵野秀明監督の実写作品『 シン・ゴジラ』と、新海誠監督のアニメ作品『君の名は。』だ。

前者は『エヴァンゲリオン』 テレビシリーズや映画で圧倒的な人気を誇るアニメ監督。 ただしこれまでに実写でもいくつか撮っており、 それらは良くも悪くも実験的、アート系で、 そこまでのヒットはしていない。後者は『秒速5センチメートル』 を始めとしたいくつかの人気作があり、 絵の美しさで有名なアニメ監督だ。 彼はアニメファンからは絶大な人気があったが、 大きな劇場で作品がかかり、 大ヒットを記録するというタイプの知名度ではなかった。

二人の共通点は「オタク」という点だろう。徹底してこだわり、 妥協を許さない。 だからこそマニアにはたまらない質の作品を作るが、 その世界観に入っていない大勢の人には、 マニアックすぎて近づく気を起こさせないところもあると思う。 エヴァンゲリオンはある程度ストーリーがわからなければ、 途中の一話を観たところでなにもわからない。新海誠作品も、 絵の凝ったアニメ恋愛ものという印象も強く、 その手に馴染みのない人には食指が動かないタイプだったろう。

しかし、今回公開された彼らの映画は、両方ともオタク層、 熱心なファン層を超えて、 一般客にも広くアピールしたと感じている。一方は「ゴジラ」 という、 日本でもトップクラスに有名なキャラクターを使っていたからかも しれない。あるいはもう一方は、今までのミニシアター系でなく、 シネコンでかなり前から大きく宣伝していたからかもしれない。

加えて共通するのは、『シン・ゴジラ』でのキャストや『 君の名は。』 の声優がかなりの有名俳優揃いだったこともあるだろう。 その名前が出るだけで集客は違う。また、 メディアへの露出頻度にも歴然とした差が出る。 作品への敷居が低くなり、いわゆる「話題作」という印象で、 世代を超えて観に行きたくさせる雰囲気を作り出せる。『 君の名は。』ではさらに、 全篇でRADWIMPSが音楽を担当した。 特に若者に支持されているこの人気バンドとタッグを組んだことも 大きかっただろう。

以上が、これら二本が安定してヒットを飛ばした要因だと思うが、 その人気が続き、口コミでの集客や、 あるいは多くのリピーターさえ生み出したのは、 作品の質が良かったことに他ならないだろう。それも、単に「 良くできた作品」というだけでなく、 それぞれに人びとを引きつける大きな魅力があった。

まず『シン・ゴジラ』は、楽しめると同時に、 それに対する解釈や批評をしたくなるストーリーである。 凶暴なゴジラがやってきた、人間も闘った、ああめでたし、 だけでは済ませられない何かを観客に感じさせる。それは、ゴジラの襲来が、 我々日本人が体験した3.11の津波という災害や原子力発電事故、そしてその後の我々の対応といった、 誰にも身近な経験を思い出させるからだ。そして、 この映画を通して何に気づけるかを考えたくなる作りになっている のだ。 猛スピードで進んでいくセリフや展開の一つ一つにこだわりがある のが感じられ、それらの謎を解きたくなるのである。

他方、『君の名は。』は、一見するとファンタジー要素の強い、高校生同士の淡い恋愛ものというくくりで終わってしまいそうな作品だ。 しかし実際はそうではない。ミステリー要素も加えつつ、 実はこちらにも3.11を彷彿とさせるような現象が絡む。 このときの舞台は、『シン・ゴジラ』 のような日本の中心地でなく、飛騨の片田舎だ。 田舎に大災害が起きるかもしれないことがわかり、 なんとか町民を救え出せないかと力を尽くす場面がある。これは、東日本大震災時の津波を思い出させる。主人公の一人、片田舎に住む少女三葉(みつは)は、ある意味その自然現象を我々に思い出させる機能を有しているのではと考える。

ゴジラという巨大不明生物、そして自然災害。そういった 想定外の事態に直面したときに、人間は何ができるのか。 そんなことを見ている側に問う作品に思えた。また、 そもそも核エネルギーや自然災害はすぐ近くに存在しているものであり、 人間は常にそれらと隣り合わせで生きているということを気付かさ せる物語でもあった。『君の名は。』 を観てそこまで連想した人が多いのか少ないのかはわからないが、 私は、このような意図も読み取れると感じた。

オタク向けと思われていたかもしれないこれらの作品が、 一般の人も楽しめる娯楽作品として昇華し、 なおかつそのクオリティやこだわりは今まで以上にスケールアップ していることが、なんだか嬉しい夏であった。 日本映画界の大きなステップになるのではと予想する。
 
 

スウィートハートの向こう側

ハードボイルド小説を読んでいる。ダシール・ハメット著『マルタの鷹』だ。

タフでクールな探偵が、殺人事件に巻き込まれる。美しいが怪しく謎めいた美女。被害者が持っていたとされる宝を狙って集まってくる輩たち。一見恋人のようでもあるが、まるで母のように主人公をあやし、たしなめる女秘書。そういった面々に囲まれて、探偵は金と暴力を使い惜しむことなく、真相に近づいていく。

セリフが何より特徴的で、主人公は話し相手に「スウィートハート」と呼びかける。女性に対してだけだと思っていたら、男性警察官にもそうしていた。性別は問わないようだ。

「ダーリン」という呼びかけも見逃せない。「君はいい子だ」と秘書に言う場面もなかなか味がある。気になる行動として、ウインクが頻出する。顔が悪魔のような風貌という設定の主人公だが、片目をつぶって合図、などはしょっちゅうだ。

こんな設定今時あるかい!と言いたくなるが、果たして時代を遡ればこういった光景が珍しくない時代がアメリカにはあったのだろうか。近い光景はあったのかもしれない。見てみたいものだ。

主人公はぶっきらぼうで、常に皮肉めいている。女性にモテて適度にあしらうが、自分が相手に夢中になることはない。友人の死にすら表面的には驚いた様子も見せない。しかし、これらは彼の本当の姿なのだろうか。

私には、彼が自分の弱みを見せたくないために、強い男性像を演じているように見える。例えば、「恋愛なんてその時々のお遊びさ」という態度を決め込んでいれば、本気になったときの、自分でコントロールができないほどの高揚感や、その反対の絶望感などは味合わなくて済む。

知り合いが死のうが悲しみの感情を出さない主義であれば、いちいち動揺したり、その醜態を人に晒すこともない。ただゆっくり煙草を巻いて、落ち着いて吸う行為で、小さな驚きを処理すればいいのだ。

だが、そういった一連の動作が、本当の彼の姿を表しているとは私には思えない。悲しければ泣く、寂しければ甘える、そういった「弱さ」も適度に見せられる人のほうが、本当は彼より強いのではないか。

感情をむやみに表に出しすぎるのは、確かにただ幼稚なだけとも取れる。しかし、過剰に感情を押し殺し平気を装う、あるいは平常心を誇示するのは、心の核心に触れられるのが怖いという防衛本能から来ているとも考えられる。私は、彼が煙草を巻く描写を読む度に、平常心を求めるがために彼がポーカーフェイスを〈装っている〉姿が浮かんでくる。

主人公は心から強く何かを思うことはないのだろうか。あるいは、普段我慢している弱さは、女性秘書に対し、腰に触ったりするなどの甘えで十分発散しているのだろうか。感情を出しやすい私からすれば、いつも冷静で羨ましい反面、苦しくないかなといらぬ心配をしてしまう。

もし私が、「あなたのどんなにクールな行動を見ても、どこかしらポーズを取っているように見える。」と主人公に伝えたら、彼はどう答えるだろう。鼻で笑って、「考え過ぎだぜ、スウィートハート」と言われてしまうだろうか。

「スウィートハート」はしばらく私の中で流行語になりそうだ。

皇帝なんかにはなりたくない

チャップリン監督作『独裁者』を観た。

日本でも多くの人が、観たことはなくてもタイトルは知っていると思う。それに、昨今は世界的に政治が激動していて、ナチスという現象にも再び注目が集まっている。ヒトラーをテーマにした映画の公開も続いていることから、『独裁者』を思い出す人も多いのではないか。

私自身は、「昔に少し観たかな。いや、テレビでダイジェストを観ただけかな。。」というあやふやな記憶だった。一度きちんと観たいなと思いながら何年かたち、やっと先日DVDで鑑賞した。

感想を言えば、なんとも月並みな言葉になる。「最後の演説に圧倒された。」というものだからだ。しかし、本音なのだから仕方ない。本編の最後は、五分ほどの長回しだ。顔がそっくりなためにヒトラーに間違えられたユダヤ人の床屋(チャップリンの二役)が、いきなり大観衆の前で演説をさせられるシーン。

色々と矛盾はある。なぜ、オドオドしていた床屋が突然の名演説をこなせるのか。なぜ、ナチス礼賛の場面で反戦、自由、愛の尊さを説いて、ナチスの将校が誰も止めに入らないのか。しかしながら、この場面ではそういった疑問は意味がないだろう。チャップリンは、話の辻褄よりも、人生をかけた彼自身の主張を優先したかったのだから。

「申し訳ない。私は皇帝なんかにはなりたくない。」スピーチはこのように始まる。そして、「そんなのは私のやることじゃない。誰かを支配したり征服もしたくない。できれば、ユダヤ人にしろキリスト教徒にしろ、黒人にしろ白人にしろ、みんなを助けたいと思っている。」この冒頭だけでも、演説の調子がうかがえるだろう。あまりに理想的すぎ、青臭すぎて、説得力を感じないかもしれない。子どもが聴いても「そんなの可能かな」と思うかもしれない。でもチャップリンの気迫は、私が抱いたそんな予想を数秒で吹き飛ばしてしまった。

カメラは一切動かない。話すほどにヒトラーのような力強さを増しながら(ここはもちろん意図的に似せたのであろうし、ヒトラーに似ているのに徹底したナチスへの抵抗を謳っていることが皮肉でありユーモアなのだろう)、こちら(鑑賞者)を真正面に見ながら床屋は語り続ける。「人は自由に正しく生きていけるはずだ」「兵士たちよ!けだものに身をゆだねてはならない」「みんなは人間なんだ!心に愛を持っているんだ。」と言った言葉が溢れ出るが、私は夢中でそれを観ていた。口をぽかんと開けていたかもしれない。「ああ、世界のリーダーたちがこんなことを思っていたらいいのに。こんな世界になってほしい。」と素直に願った。

さらに演説は続く。最も印象深いのはこのセリフだった。「憎んではならない。ただ愛されない者だけが憎むのだ。」

これは真実を言い当てている。憎むのが良くないのはほとんどの人がわかっているだろう。でも何かに対して憎まざるを得ないような状況に陥ってしまう人がいるからこそ、憎しみが生まれてしまうのだ。「誰々は悪党だ」「戦争はあってはならない」とだけ言うよりも、この短いフレーズで「なぜ憎しみは生まれるのか」に言及することで、この演説の真実味が増していると感じた。

チャップリン研究家である大野裕之著『チャップリンヒトラー メディアとイメージの世界大戦』によれば、この演説の原稿は数え切れないほど何度も推敲されたのだという。また、ナチスはこの映画製作を執拗に妨害してきたというから、誇張でなくチャップリンは命をかけてこの作品を撮ったのだろう。その勇気はとても計り知れない。

全編を通して観て、正直演出やギャグが古いなあと感じたところもある。それはそうだろう。1940年公開の映画なのだから。ずっとお腹を抱えて笑えたわけでもない。しかし、どうしたって最後の演説シーンは一見の価値がある。少なくとも私にはあった。

ちなみに、この演説シーンは無料動画サイトにあがっており、再生回数も多い。「独裁者 演説」で検索すると、日本語字幕付きバージョンが何種類も出てくる。そして多いものは何十万回と再生されている。映画本編を観ていなくても、その迫力は垣間見れるだろう。世の中に疲れたとき、あるいは一瞬でも夢や希望がほしいときに人びとが観ているのだろうかと考えると感慨深い。

なお、演説シーンの訳などは大野氏の著書から引用させていただいた。時代を超えて残る名シーンに出会えたことに感謝している。